特別寄稿

メジェップ株式会社 代表取締役
株式会社ジーベックテクノロジー 取締役
山口 勝美
昭和35年卒業(第19回)

大学における研究

まえがき
 筆者は5年前まで名古屋大学にお世話になっていた。停年退官後は、在職中「ファイバー砥石」の研究で共同研究をやって会社設立に関与してきたベンチャー企業に参画した。開始間もなく、別の研究で国から大金をいただくことになり、急遽、研究を変更し、3年間「メタルジェットプリンター」の開発研究をやってきた。その研究成果を事業化すべく会社を起こし、現在に至っている。同輩の者は皆第一線を退いた年齢において、新規企業を起こし、事業化を実現しようとする“狂気の沙汰”を実践している。これを通じて、自分のライフワークの完遂を夢みて、生きがいをもって毎日を送っている。原稿依頼に応えるべく、この現状を踏まえて過去の大学の研究を振り返りみたいと思う。

研究の評価
 大学に在職中、研究は自由にできた。研究の自由は大学の最大の魅力である。企業と違ってこれだけは絶対に守ってほしいと思う。ただし、自由であるがため、その結果に責任を持ち、成果が評価に耐えるものでなければならない。
 私企業は営利を目的としているので、研究の評価は容易である。企業に大きな利潤をもたらした研究は高い評価を受ける。しかし、大学においてはロングタームでの公共の利益を目的としているので、その組織に幾らの利益をもたらしたといった評価の数値化は殆どできない。例えば、ニュートン力学を確立したとか、導電性プラスチックを発見したからといて、その時点で公共に幾らの利益をもたらしたなどと利益の数値化はできない。当然、数値ではなく、将来展開性・可能性などを含めた研究成果の内容で評価すべきである。ところが、このような評価は専門家でも難しいところがある。ましてや、所属する研究科や専攻などの組織は専門外の研究者の集まりであるので容易なことではない。しかし、昇進などの権限を行使しなければならないので、数量的な評価材料として発表論文の数などがまかり通ることとなる。学会などでも、たいした研究成果を持たないのにリーダー振りをする研究者が人目に立つので、そのような行動が功名を馳せることともなる。評価・審査をする研究者に“高い眼力”が求められ、本当に価値のある研究が評価されることを望むものである。最近は情報過多で、誰が先鞭をつけたか、誰の発案かなどが、全く詮索されずスタンドプレイなどで目立つ人間が評価されてしまう傾向が強い。日本の専門の学会でも高く評価されていなかった筑波大学白川名誉教授や島津製作所の田中氏の研究はその分野の先鞭をつけたということでノーベル賞を受賞された。審査委員の眼力に敬意を表したいし、両氏の受賞は正にこのような世の風潮への警鐘であると思う。

研究費
 最近は科学技術振興とか景気対策とかで国からも大型の研究費が予算化され、また、重点化などで一部の大学・専攻に研究費が集中することとなる。研究費の差別化である。昔に比べて、一律に配分される人・建物にはお金が回らず、直接研究費のみお金が潤沢化している。このため大学間で研究費獲得競争が激しくなってきた。これは悪いことではない。しかし、潤うところは一見、研究バブルのように見える。
 このような状況では、研究費を多く獲得したかどうか、獲得額は格好の研究者評価の数値を提供することとなる。確かに、審査委員が研究の内容をしっかり読んで評価をするので、非常によい評価基準であると思う。大いに賛同する。人事権者や学会リーダーなどで、これ程研究内容や成果を真剣に読んで、判断くれる人はいないからである。しかし、研究費獲得額が評価基準にされるとなると、やたら研究費を高く申請することとなる。研究はやり方で予算は幾らでも書ける。研究費獲得者は獲得額を誇ることとなるのである。“もったいないと質素に努める研究者は割に合わない”こととなる。研究費の無駄使いが起こる。審査を通ったという免罪符があるために、贅沢過ぎる装置が購入されることとなり、その装置が十分活用されず、年度を過ぎると置き場が無くて、研究室に山積みになっていないか。筆者は在職中使った研究費は自分を含めた研究者の人件費を考慮すると停年前10年で何億になるのか。停年後も2億を越える税金を使った。国の金であるからこんなお金が使えた。現在までに、それだけの研究費をお返しできるだけの研究成果を出したであろうか。自問したとき大変な無駄使いをしたと自己嫌悪に陥る。如何にしてこれから社会に還元できるか、というのが今やっているベンチャーの所以でもある。私企業から見ると、国の研究費はやたらふんだんである。しかし、使うとなると制限が強く、有効活用の足かせが多すぎる。制限を緩めると無駄使いが起こるというのであろう。税金を使うだけの一方通行であり、使えば使っただけ、むなしい誇りが残ることはあっても、それに見合う責任を求められるというフィードバックが働かない世界であるからである。
 研究者の中には一方では研究費が足りないという意見も聞く。お金はあるに越したことはないが、お金があればよい研究ができる訳ではない。先の白川・田中両氏はノーベル賞を受賞された研究に幾ら研究費を使われたであろうか。発想・勘・洞察力が成果をもたらしたと思う。発想、知恵、勘、努力等はお金では替えられないのである。研究者が皆、大金を使ってカミオカンデを立ち上げた小柴東大名誉教授のような研究を目指す必要はない。新しい境地を切り開くのに、そんなにお金がかかる訳ではない。研究費が少なくても愁うることはない。

独立法人化
 大学が独立法人化された。以前より自立と責任が大学に背負わされる。企業との関わりも強くなって、共同研究、委託研究なども今までより活発化するであろう。大学発ベンチャーがもてはやされる状況にもなってきた。
 大学は元来長期的展望に立った研究がなされるべきで、すぐに役立つ成果を得たい企業の研究とは、過去、かなりうまく棲み分けができていた。こんな中で研究費獲得が必要となれば、どうしても企業におもねる研究が幅をきかすことになりかねない。企業では、研究は直ぐに実用にならないと、肩身が狭い世界である。やはり大学は今年、来年などといった近視眼的な立場でなく、先を見越した、斬新な、将来の展開性のある基礎的な研究を期待したい。可能性・将来性があれば、直ぐに役立たなくても評価される世界であるはずである。大学は研究費獲得が目的でもなければ、ベンチャーを起こすことが目的でもない。しかし、昨今、研究費獲得額や立ち上がったベンチャーの数を競う風潮が蔓延しているように見える。筆者は今ベンチャーに関与しているが、それを目的に研究した意識は全くなかった。斬新な面白い研究をしたいとやってきた結果がそうなっただけである。研究に着手した時代は−今でもそうかもしれないが−、ベンチャーなどの関与するのは学者の風上にも置けないといった風潮があったものである。

大学と同窓会
 法人化以来、大学の競争が激しくなってきた。このため、大学の後見人として同窓会の存在が大きくなってきて、先般、全学の同窓会が結成された。
 東山会の先輩の中には、過去、母校機械学科の発展のために多大の私財を寄付いただいた複数の例もある。しかし、一方で、東山会の同窓会を維持する会費に替える名簿の売上すらままならない状況にあるのも事実である。大学に籍を置いたものとして、東山会会員の母校への有形・無形の支援をお願いするとともに、母校も野依教授に引き続き、本当の意味で評価に耐える優れた研究が続出することを願うものである。

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