特別寄稿
鈴木 隆充 昭和 33 年卒業(第 17 回) |
発展成長から停滞までを見て思う
私が機械学科を卒業した53年前の日本は、戦争の傷跡がようやく消え、依然として貧しく不安ながら、明るさが見え始めた時代だった。
総理大臣池田勇人は10年間でGDPを2倍にしようと、いわゆる所得倍増計画を掲げてこれにとりかかった。道路、港湾、鉄道建設などの投資が積極的に進められ、1964年、東京オリンピックの年、東海道新幹線が開通、同じ年に名神高速道路も、また1969年に東名高速道路も開通した。産業界各社は積極的な投資を進め、生産を伸ばした。自動車も3種の神器と言われた家電製品も急速に普及した。乾いた砂に水が浸み込むように作れば売れる時代が始まった。途中、その勢いに水をさす出来事もあった。昭和48年の石油ショック、50年代に入ってからの環境問題など。しかしそれらも少し停滞をもたらしただけで乗り越えた。賃金は急ピッチであがり、かつては手が届かなかった自動車も広くゆき渡り、家電製品もほとんどすべての家庭に普及した。需要に応じて良い品を作っていれば、報われて収益は上がり、企業は拡大し、経済は伸びた時代であった。「魅力ある新製品を生み出して市場を創出しよう」と新技術・新商品の開発に拍車がかかり、コストダウンも進められて、安くて良い製品が広く普及するようになった。そして夢のように豊かな時代になった。
国内の需要が満たされると海外市場に進出し、輸出で稼ぐようになった。やがて、これが海外の市場秩序を乱すことになり、自主的に規制するようになった。所得が上がるにつれ、国内での生産コストが上がって競争力を失って行った。空洞化の問題をはらみながら、海外で生産して輸入するようになった。高コスト体質の日本での生産は伸びなくなり、生産販売の海外移転がさらに進んだ。円高の日本からの輸出では収益が伸びず、デフレが続く中で勤労者の所得は年々下がるという様相になった。競争が激しくなり、供給過剰で慢性的な不況に陥っていた。国内の需要不足を輸出で補おうとすると円高が更に進み、それに打ち勝つためにまたコストダウンが求められた。豊かではあるが、明るさのない、先の不安の多い、世の中になった。
以上が53年前に私が社会に出てから現在までのわが国のたどった道であった。私は発展成長から停滞までのこの期間、その流れの中にあって実感してきた。コスト競争は消費者に恩恵をもたらすのは確かであるが、消費者もまた企業社会の構成員である。激しい競争で企業収益が圧迫されれば賃金が減って自らに跳ね返る。私は技術屋として、安く良い品を作り、広く提供する仕事に携わってきたが、そのたどり着いた結果が停滞、不況、不安、不満であると思うと虚しい思いがする。原始の昔、弓矢の改良によって獲物資源を枯渇させた狩猟民族があったというが、それに等しい。
人間にとっては、まず、衣・食・住・健康などの基本的な要求が満たされることが第一であり、これが満たされるまでは、経済効率を高めることが最優先とされなければならない。現在、較差があり、不公平さがあるが、この要求は満たされている。社会は時代の流れに沿った対応をして変わってゆかなければならないし、皆その努力は続けなくてはいけないが、「今これ以上の環境の破壊、資源の浪費、過剰供給による不況の連鎖といった代償を払ってまで拡大成長を求め続けるべきではない」「先人のこれまでの努力に感謝し、現在に満足すべきだ」と思う。
成熟したゼロサム社会では一方の成長は他方の消滅を生むのみであろう。