特別寄稿
中村 育雄 昭和 34 年卒業(第 18 回) |
忘れえぬ人々と事ども
今年、平成24年、2012年は昭和で数えると87年、私が文部教官名古屋大学助手に任用され会社を辞したのは昭和37年、1962年秋のことですから丁度半世紀前のことです。学部卒の私が採用されたのは、高度成長計画に合わせた工学部大拡張の時期で助手ポストがあった為でした。50年間には色んな変化が起きますが、無論、昭和20年、1945年を挟む半世紀、明治元年、1868年を挟む50年間のような激変ではありませんでした。しかし、この間に海外では明治維新並みの衝撃波を経験した国々があり、それは日本に、すぐには分かりにくい、ゆっくりした、しかし大津波となって波及し、当然大学もその影響を免れませんが、日本の大学にとっては少子化・受験生減・高齢化・人口減による国の財政難とあいまってこの影響はどちらかといえば苦しい方向のものと感じます。
私が流体機械講座助手になったとき、今は故人の古屋善正先生は文部省派遣在外研究員としてドイツに居られました。「君はそこに座っておれ」、とある先生から言われて私は名古屋帝国大学創設期の木造水力実験室助手室の一隅の机を頂きました。そこで毎朝、湯を沸かし、お茶の準備をして立ち寄って行かれる教授の先生方の対話を拝聴していました。その内容が会社時代の上司・同僚の雑談と非常に違うのに驚きました。研究、大学の話し以外に相当な部分を日本の現状、将来に関する対話が占めていました。これは一つには先生方に、かつての七帝国大学の一つとしての名古屋大学の役割に関する責任意識が色濃くあった為でした。その後も、この助手席で古屋先生、村上光清先生(故人)をはじめとする先生方の対話を何度も横で伺った経験は貴重でした。色々考えるきっかけを私に与えてくれました。なお、古屋先生は戦時中、海軍技術将校、村上先生は陸軍技術将校で、お話の中には先生方の心の中に残っていたその片鱗が折々窺えました。
対話を聞いた経験から私は教授になってから、毎朝、3号館の研究室の隣室の助教授を勤めていただいた若い人、何人か代わりましたが、と15分間ディスカッションと称してコーヒーを出して頂き、黒板に書き散らしながら勝手な話題で話をしました。大概、30分から1時間お邪魔をしました。聞くと現在では先生方の時間的余裕が無く、こんな贅沢は許されないでしょう。
古屋先生が帰国され、朝、実験室にお見えになったお姿はいまでもありありと印象に残っています。私は、先生がブラウンシュバイク大学で着目された「軸流中の回転体境界層」の研究テーマを頂き、ドイツから持ち帰られた資料を参考にして勉強を始めました。丁度、東山会前会長の川地秀和さんが4年生になって、私と一緒にこの問題に取り掛かりました。風洞装置、回転体、測定器の設計、製作、組み立て、調整、流れが不均一でデータが取れず風洞の徹底した大改修と、私のテーマでもあり、彼の卒研、修論でもある実験に、併せて3年間共に苦労しました。川地さんが修士に入られたときは修士の大幅増員が為された時期でした。実験がうまく行かぬ問題の解決には、古屋先生、藤本哲夫先生の助言が欠かせませんでした。当時の少ない講座費から装置改造費用を出していただき、補足設計、製作、組み立て調整を繰り返し、ピトー管測定値から計算して妥当と思われるグラフが顕れた時は、こみ上げる喜びを感じました。このテーマでは、後に、当時まだ学生だった山下新太郎岐阜大学名誉教授、渡邉崇名大情報科学専攻教授などとの共同研究が生きました。
その頃の私の役割の一つが講座費の管理で、帳簿をつけ講座費の実情が分かっていましたから、成功の当てのはっきりしない装置改修への予算使用の古屋先生のご決断に感謝しました。このお考えを決めるには、当時、助教授の藤本哲夫先生のご意見が重要でした。その後も二、三回、古屋先生が講座費をあるテーマに集中されるのを、講座費管理の帳簿から理解しました。古屋先生のお考えは、口には出されませんでしたが、今で言う「選択と集中」です。卒論、修論だけから考えると平等が好ましいのですが、博士論文に関係するテーマに関しては、有り余る研究費があるならともかく、少ない中からはそこに在る程度重みをつけないといけないことを暗黙に示されました。
助手時代は文字通り修行時代で、先のことは念頭に無く、勉強、実験、論文読み、輪講、義務は週1回の学生実験のみ、スポーツで日々を過ごしました。特にこの時期の、当時、博士課程学生だった藤田秀臣先生や他の院生達を含めてやった数学、乱流の基礎理論など色んな輪講は、私の基礎学力の礎となり、その後の力となりました。私がこの時期を持たなかったら、学位取得が漸くで、あとは枯渇したでしょう。
名古屋大学の激動は私が教養部図学教室講師に昇任した昭和44年、1969年、着任した4月末にはもう始まりました。大学紛争は、今は忘れ去られた事件ですが、世界中で起こりました。アメリカでは州兵が出動した大学も何箇所か報道されました。ソ連が宇宙開発で躍進し、毛沢東の文化大革命が荒れ狂い、紅衛兵大部隊が赤い小冊子、毛沢東語録を一斉に掲げて「造反有理」を叫び、このスローガンが広まる一方、アメリカがベトナムで泥沼の戦争に堕ちていた時期です。名古屋大学の紛争は東大などに比べて大分遅れて始まりましたが、予兆はありました。当時の大学入試1期校の3月3日から5日までの入学試験の監督をしていると、教室の外を10人かそこらの白衣を着た、おそらく助手を含む人たちが2列に並び駆け足デモをしながら大学解体・入試粉砕と叫んでいました。そんな風景を何度か見て漠とした不安を感じていました。
名大紛争は教養部の封鎖――闘争学生達が床にネジ止めしてあった机や椅子を外して教室から持ち出し、要所、要所に積み上げてしまう――から本格化しました。デモ隊はいまや大集団になり、学生達のゲバ棒(角材や鉄パイプ、Gewalt:暴力)が振り回され、私の目前で、殴られた白ヘルメットの中核派学生は脳震盪を起こし、うずくまりました。全学が紛糾し、豊田講堂の前の広場が対立学生グループのぶつかり合いの戦場になりました。
先生たちは何をしていたか。自縄自縛でした。教職員組合の承諾、立会い無しには、どんな事件があっても警察を学内にいれない、という協定がありました。警察は権力の犬、という発想でした。教養部を封鎖されやむなく学部の部屋を借りた教官会議では、機動隊を要請するか、どうかが問題となり賛成、いやもっと別のことを考えるべきだ、と混乱した論議が果て知れず続くだけでした。あの先生は、どうも闘争学生を支持しているらしい、あの先生は社青同(社会主義青年同盟、社会党系で、実はこれが最も過激なグループ)支持?あの先生は学生自治会の民青系(民主主義青年同盟、この代々木系が暴力排除派でした)支持ではないか。紛争学生に会議の様子が漏れたときの、学生のつるし上げの対象となることを恐れて、先生たち互いの間に疑心が生じました。
9月末のある日、封鎖解除を強行するから集まれという連絡がどこからとも無く来ました。指定時刻にその場所へ言ってみると、封鎖反対の代々木系自治会派の学生達と、これを支持・指導する先生達、その他、私のような一般の先生たちが集まり、突撃が始まりました。主導グループが計画し相当に準備してあったようでした。封鎖学生の投げる歩道のコンクリートブロックを割った塊が頭上を飛び交いましたが、突破は成功しました。私も廊下をふさいで積まれた幾つもの机を除け、まず図学教室に行きました。幸い4階の端の部屋で大して荒らされてはいませんでした。
その夜は学内で過ごしましたが、何機ものヘリコプターとおぼしき音で目覚めました。白々明けの教養部と豊田講堂の前には、何時来たのか大勢の完全装備の警察機動隊員がジュラルミン製の大盾を持って並んでいました。朝日の昇る前に隊長の指揮の元、機動隊は粛然と防弾ガラスの暗緑色のバスに吸い込まれ立ち去りました。学内は不思議に深と静まりかえっていました。後で聞けば、封鎖学生の反撃を防ぐ為に学長が密かに愛知県警に機動隊出動を依頼しに行ったというような噂でした。結局、「暴に対するには暴を以って」、ということでした。
大学はどう変わったか。外観は同じでしたが、教職員の間の心理的変化が大でした。ある技官は、私に、「あれ以来、教授の方の自分たちに対する態度が大きく変わったよ」、といいました。
以後、何度も大学紛争の意味合いを考えましたが、本当に納得する説明は思いつきません。1991年のソ連解体で終わった、しかし紛争当時は、世界のソ連化が歴史の大きな流れ、と信じる人が結構多かった風潮の中の事件群の一つ、ということだろうと感じます。ただ、近くに出来た本屋の棚に、あの大学紛争、さらに激しかった成田空港闘争を懐かしむ人の記事が載り、マルクスをもて囃す本が新たに並び始めたことは気になります。科学とは、観測事実に拠り処を求めつつ・・と書いているのはノーベル賞の朝永振一郎ですが、その科学たることを断固主張し他を排撃した主義の実行の結果、つまり実験観測の結果が世界中で出たのに、取るべきを採り、捨てるべきを明らかにして冷静に判断を下した内容ではないこのような本がでるのが不思議です。人間の思い込みの不合理さを感じます。
工学部に戻り、古屋先生の助教授となった私は1974年秋、フンボルト奨学金を得て、ハノーファー(ドイツ人はハノーバーと濁る発音は決してしません)に行くときはソ連のアエロフロート航空に乗りシベリア上空を飛びました。その頃は他の飛行機はその航路はソ連に許可されずアンカレッジ経由で北極上空を飛んで行きました。ドイツでは、滞在はハノーファー大学のTeipel教授のところでしたが、古屋先生が学術振興会基金で名大に招聘されたボッフム大学のK. Gersten教授にも色々お世話になりました。教授は闊達でワインを好み、一体いつ勉強するのかと思いましたが、800ページにも達する立派な分厚い境界層関連の本を2冊も著し、一つは英訳されて盛んに引用されています。後に教授の研究室には宮田勝文山梨大学名誉教授が名大講師時代留学しました。私の留守中は三重大学に移っておられた藤本先生が非常勤で講義を引き受けてくださり、設計製図第3は古屋教授が自ら担当して下さいました。設計製図は講師、助教授担当と決まっていた時代に、しかもテーマをペルトン水車から軸流送風機に変えられました。送風機の設計本、サンプル図の何も無いときに、ご多忙の中、これは驚くべきご努力でした。その後、私はこのテーマを続けました。
留学時とその後と併せて三回、文字通り冷戦の現場であったベルリンの壁の向こうの東ベルリンに1日限り滞在許可ビザを貰って入りました。目的は、東側の経済優等生と当時の日本では報道されていた東ドイツを見ることと有名なペルガモン博物館見学でした。ウンターデンリンデンの歩道には四角なボックスが幾つか立っていました。ふと気づくとボックスには細い窓があり、じっと辺りを警戒する目が光っていました。歩行者は皆、見てみぬ振りをして通り過ぎました。東西ベルリン間の検問所を通してもらう際に10西ドイツマルクを10東ドイツマルクに強制的に交換させられましたが、広い通りに土産物店は1軒しか無く、欲しいような品物は何も見当たりません。しかし西では東のマルクは無価値でしたから、小さな籠を買いました。ただ、ペルガモン博物館の中の展示は壮観で、古代世界に入ったようでした。
家族連れで西ベルリンからハノーファーへ戻る閑散とした冬の夜行列車には、銃を肩にした2名の東ドイツ兵が乗り込みシェパードを連れて脱出者を探していました。パスポートに疑念を持たれては大変と緊張しましたが、子供連れでしたから、兵士は出したパスポートを黙ってじろりと見て行ってしまいました。マグデブルクの半球で有名なマグデブルク市駅に止まりましたが、ホームはひっそりとし人の気配はありませんでした。
1991年のソ連解体後の早い時期、もう一度ベルリンを訪ねると、「壁」はもはや跡形も無く、前は近づけなかった凱旋門の下を森鴎外が歩いたであろうように歩いて、かっての東に入りました。戦没ソ連兵慰霊の火炎、それを納めた建物、銃剣を持ち鉄兜でその前を守って微動だにしなかったソ連警備兵、不気味な見張りボックス、何もかも消えていました。あの「壁」、有刺鉄線が張られたあの高い頑丈な城壁が消えた?信じ難いことでしたが消えていました。しかしソ連解体に伴う激変の余韻はまだ世界に残っていると感じます。
在独中、オランダのデルフト工科大学、今は風車研究で有名、で国際応用力学会議があり、幸い、古屋、中村、大坂(大坂英雄山口大学名誉教授)で発表することが出来ました。学会で、J. C. R. Hunt博士 (当時はケンブリッジ大学のreader (講師)) の講演を聴き、前から気になる名前でしたから、思い切って話しかけ、ケンブリッジ大学訪問を約束できました。一旦、ハノーファーに帰り、大坂先生と家族を伴い格安航空でイギリスに行きました。サッチャー改革以前で英国病の言葉がそのまま感じられる時代で、ロンドンの寂れた家々にSALEの看板がドアに下がっているのが目に付きました。しかし、ケンブリッジ大学は違いました。
街中に散らばる広い大学の中で、応用数学及び理論物理学部門(DAMTP)を探しHunt博士を訪問し、色々話を聞き、更にキャベンディシュ研究所を紹介してもらい、郊外に移っていたDNAの構造をはじめとする数々の科学史に残る発見がなされた研究所を訪ねました。目的のA. A. Townsend博士(20世紀を代表する乱流せん断流研究者)は不在で会えませんでしたが、研究室のMumford博士に案内して頂き、実験室の清潔さ、風洞装置の立派さに目を見張りました。これでなくては世界的に認められる乱流研究は出来ない、と深く感じ、帰国後、その方向で努力はしましたが難しいことでした。ただ、大坂山口大学名誉教授、宮田山梨大学名誉教授、山下岐阜大学名誉教授、辻義之名大エネルギー理工学専攻教授(イェール大学留学)の実験室では、かなりこの方向が実現されたと思います。
Hunt博士はその後、ケンブリッジ大教授になり、現在はLord Hunt of Chestertonつまりハント卿として貴族に列せられイギリス上院議員、いろんな大学教授を兼任しています。
ある時、ハント卿にChestertonの意味を尋ねたら、ケンブリッジに住んでいた時の町の名前、ということでした。循環保存則や絶対温度Kのケルビン卿 (W. Thomson) のKelvinは彼が愛したグラスゴー市の川の名前ですから、同じような気持ちでつけたようでした。日本の伊勢守、越中守のようなものです。不思議な縁で日本ではHunt教授、同夫人、酒井助教授、私と4人で伊勢神宮、志摩、奈良と旅し、国際会議、名大でも何度か会いました。酒井康彦名大機械理工学専攻教授が助手時代、ハント卿の所に留学しました。驚くべき鋭い頭脳の持ち主で研究業績はもとより豊富、一方で、度量宏大、もの事に拘泥しない性格で英国のLordにはこういう人物が選ばれるのか、と知りました。日本人が大勢、共同研究をしています。
彼が日本に最初に来たときの報告書を私にも送ってくれましたが、その中の一節、
・・・My second suggestion is that Japanese researchers will only be able to make decisive developments in this subject when they understand the basic ideas(not techniques) more completely. I was astonished to find that some leading Japanese research workers had not read some of the seminal papers or books in their special area of Fluid Mechanics.・・・・
これを読んで私は反省させられましたが、今の現役の皆さんにとっては、頂門の一針ではない、ならば幸いです。
古屋先生は工学部長を勤められた後、定年を1年余して、岐阜高専校長、次いで豊橋技術科学大学副学長に選ばれましたが、これも任期前に辞されて引退されました。私は、古屋先生が岐阜に去られた数年後、昇任し流体機械講座担当に任用されました。日本のバブル経済の絶頂期でしたが、直ぐに今の大学の苦境につながる変化が現れ始めました。団塊世代の子供増からくるほんの一時期の学生増への対応、その後に来る18歳人口減、教養部廃止、大学院重点化、それに伴う学科再編、ゆとり教育による基礎学力低下問題、外部資金問題、独立法人化問題、経済の低迷による予算減、等々で、この難問群は何年も前に始まりましたが、今後も長い年月続くのは確実です。
規制緩和と共に株式会社大学、インターネット大学、サテライト大学などが現れ、現代の極端に多様化した大学が進むべき方向はそれぞれの大学にとって濃い霧の中でしょうが、名古屋大学としては日本社会の評価と期待に応える責務があり、かつ応える力があります。また現に実績を示しています。古屋、中村、次いで酒井、と続く研究室の一例では、出身者に名古屋大学の現役教授として、酒井康彦機械理工学専攻、渡邉崇情報科学専攻、辻義之エネルギー理工学専攻、林農環境学研究科客員教授(自然エネルギー担当、鳥取大学名誉教授)、後藤吉正教授(名大産官学連携推進本部・知的財産部長、元パナソニック理事(他の会社の役員相当))を数え、逐一は挙げませんが、他大学教員、企業役職者、自らの企業経営者が何人も出ています。
廃止された教養教育再興が叫ばれるようになりました。私の受けた教養教育や紛争時の経験からも、また教養部廃止の議論が沸き起こった時代、その時代に教養教育を受けていた娘たち二人に教養教育の印象を尋ねた時の答えなどからも、私はこの意見に賛成ですが、組織、年限などのあり方はよほど慎重に、この年齢時期の若者の教育に関する見識の持ち主の考えに従うのが良かろうと思います。かつてのように画一的に全ての大学にではなく、その力の在る大学がそれぞれの考えに従って、名大なら、名古屋大学第八高等教養学部、略称‘八高’と独立した学部・大学院を作るのが望まれます。昭和区滝子町の名古屋市立大学の片隅にかつての八高時代の築山が残り、その裾に八高生のマント姿の小振りな銅像が立っています。
私の経験と、828年に空海の創設した庶民が入れる世界最古の大学ともいわれる綜芸種智院の設立思想、プラトン対話篇、N.ウイーナーの本など、多少読んだものから考えて、名古屋大学としての学問発展貢献の為には、何よりも若い博士学生、研究者に対する他からの研究発表圧力、外部資金獲得圧力を減らすことが必須と信じます。他の圧力からではなく自律した努力の気風が重要です。古屋先生からは、度々きつい叱責、先生は戦前の東京上流階級のご出身でしたから言葉遣いは丁寧、語調も柔らかでしたが後で考えると内容はきつい叱責、を受けましたが、人間としての心得についてであり、それも、くどくは仰いませんでした。研究成果、科研費獲得を催促されたことなどは一度もありませんでした。講座全体として研究、勉強は各自が自律的に各自の力のペースでやれました。私の代になると時代は変わり、私の力不足もあり研究成果を催促しなくては済まなくなりましたが、研究費獲得、助手席は無く3年で学位論文提出の圧力と博士学生の就職の現実、を考えるとそうせざるを得ませんでした。
このような研究室の自律的な気風を作られた古屋先生のお言葉で、私が肝に銘じたのは、「人の前を横切らないように」でした。守れたかどうかは確信がありませんが、お言葉は心に沁み込みました。私が結婚の何年か前に伺ったお言葉は、「年取ってからの幸、不幸の8割方は子供で決まるね、だから結婚と子育てには注意しなくてはいけないよ」。20年、30年を経て分かったことですが、普通人の人生の切実な真実をこれほどはっきり言い尽くした言葉は他に知りません。哲学者であり大論理学者であったB.ラッセルは「幸福論」の中で類似したことを書いていますが、これほど明確ではありません。
この特別寄稿をお受けしたのは、一つには、大学暴力紛争の不条理、冷戦終結前の日本のマスコミがこぞって褒めた東ドイツ実態の一端、この古屋先生のお言葉、を皆さんにお伝えしたいと思ったからです。