平成24年度 東山会会報

会員からの便り


菱電エンジニアリング株式会社
代表取締役社長

大泉 敏郎

昭和 47 年卒業(第31回)


 昭和47年に卒業後40年が過ぎましたが、一時期会社の採用の関係で大学を訪問したことがあるものの、随分大学とは遠ざかっています。

 そのような中、先日教養部時代のクラス会が名大の近くであり、久し振りに名大の近くを訪れる機会がありました。地下鉄に乗って行ったのですが非常に便利ですね。通学時に地下鉄があったら本当に楽だっただろうなと強く思いました。また、グリーンベルト周辺も随分変わっており40年の長さを感じた一日でした。

 さて、最近尖閣諸島を巡る反日運動でニュースになっている中国ですが、中国の大連に5年半駐在したことのある者として早く収まってもらいたいと切に感じています。

 名大の周辺もこの40年間で大きく変わっていましたが、この20〜30年の間に中国はもっと変わっています。それについて少しだけ書いてみたいと思います。

 私は卒業後三菱電機に入社し、放電加工機の関係の業務に長く携わってきましたが、入社後はじめての海外出張が1977年のルーマニアでの特殊機の据付業務であり、その時乗り継ぎで北京空港へ行ったのが本当の中国を見た最初でした。(ルーマニア航空は日本に乗り入れてなく北京でトランジットする必要があったのです。)ルートも羽田から上海の上空に遠回りして北京に行くもので、今より長い時間がかかりました。また北京空港に着くと、待合室の電灯も暗く、飛行機も自分が北京まで乗ってきた機体と乗換えてルーマニアに行くルーマニア航空の機体の2機しかなく、非常に寒々とした感じであったのを覚えています。現在の北京空港と同じ空港ですが、全く別のものでした。

 その後中国に行く機会はありませんでしたが、1997年に三菱電機も放電加工機を中国大連で生産することを決定し、その工場の建屋の建設から立ち上げ、現地への駐在と5年半に亘り住むことになりました。正式に赴任した1998年当時は、大連も大きなビルは建ちかけており近代都市的な外観を整えつつありましたが、少し田舎の方へ行くと、道路も十分整備されていないところもあり、まだまだ20年前に見た北京空港のイメージの中国と大きく変わることはありませんでした。しかし日本に帰任する2004年には大連市内及び周辺の地域でも新しい道路が多く整備され、また市中心部と開発区を結ぶ鉄道も建設され、上海ではリニア鉄道が試運転を行うところまで実現しておりました。発展の度合の差は中国沿海部と内陸部だけではなく、同じ沿岸部であっても地域によって随分差があり、やはり上海が一番発展が早かったように思います。また、長期の休日に旅行に行った哈爾浜、重慶、烏魯木斉、桂林、西安等々は内陸部であるため、大連等の沿海部と比べると発展が遅いのが歴然としていました。

 また、中国の人の生活も目に見えて変わってきており、2003年のSARSの流行を機に上海では、都市高速が一気に渋滞するようになり、また大連でも急速に個人所有の乗用車が増えてきました。ちなみに最近の大連は、三菱電機の工場でも自動車で通勤する社員が増えてきており、道路も一層整備されてきています。(しかし自動車の増加に道路の整備が追いつかず渋滞はひどくなっていますが)

 このように急速に変化している中国ですが、この中国駐在中に判ったことは、中国は面積的にも人口の面でも非常に大きい国で、大連に5年半住んでいましたが、大連を若干知ることができても、中国を知ったことにはならないということでした。最近のニュースを見ていますと、中国の人全体が同じように考え行動しているような論調が目立ちますが、現地に住んでいる日本の方々から見ると(もちろん住んでいる場所によっても随分違うと思いますが)、また異なる感じを持つ方も多いのではないかと思っています。いずれにせよ多くの日系企業が中国に進出し、日本人も多く住んでいます。難しいことは重々わかっていますが、早く混乱が収まってくれることを祈りたいと思います。

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