特別寄稿
名古屋大学 名誉教授 メジェップ 代表取締役 山口 勝美 昭和 35 年卒業(第 19 回) |
南十字星が天頂に
(大学におけるパラダイムシフト)
ダーウインは人間や猿といった「種」は神が作ったものではなく進化でできたことに気付いた.この新概念を確信したとき,さぞかし躍り上がる感動を覚えたことであろう.しかしこの概念は当時の世の常識をひっくり返すとんでもない代物であって,その時代の人々に容易に受け入れられるものではなかった.現代ではこの概念は常識で,一部の宗派の信者を除いて,誰もが当然の真理だと思っている.しかし,今後,遺伝子組み換え技術を使い始めて100年先,「種」に関する真理・常識・価値観がどのように変貌しているか私は想像できない.
コロンブスはアメリカ大陸を発見した偉人であると教わった.しかし,アメリカインデアンにとっては,彼らが定住している土地に後から土足で上り込んできた侵略者の先鋒に過ぎない.先住民たちが先で,それを知らなかっただけなのに「発見」とは迷惑千万な話であろう.重ねて言うが新大陸の発見は先住民が先である.先住民の立場からすれば,ヨーロッパ人はせめて新大陸人との「遭遇」とぐらいに書くべきと思っていることであろう.
こんな話を始めたのは,人の常識・価値観は真理と思っていることすら,時代によって,立場によって容易に真逆になることである.これこそ「真」であり,「善」であると信じて毎日精進してやってきたことが,ある日突然180度変わって「虚」であり「悪」となっていることに気付くのである.
[象牙の塔から始まった]
本題に入ろう.人間は「真」「善」と信じてきたことを途中で変えることは過去の自分を自己否定するもので,変えたくもないし,容易に変えられない.
筆者は長年大学人として通してきたが,若かりし頃は,大学は真理探究の場所であるという崇高な理念が純粋に行き渡っていたように思う.発明ごとは発表することで名誉を得るのが学者であって,学者が特許を取ることにはかなり抵抗感があった.今と違って大学での発明の適正な取り扱い方も分かっていなかったし,国も放置していた.研究も工学の分野と言えど特定の企業と組んで研究し,その企業を利する行為は大学人として相応しいとは思われていなかった.大学紛争の頃は産学共同は「悪」であり,賛同する教官は吊るし上げをくったものである.これがこの時代の大学人の無言の規範となっており,常識的価値観であった.このころ大学は象牙の塔と揶揄されたりもしていた.
[産学共同の奨励]
しかし,教授になった頃,常識が一変した.産学共同が明確に「善」となった.産学共同に国から突如大型の予算が付きだした.企業からも大学の研究者に相当のお金が出せるようになった.パラダイムシフトの始まりである.本来工学の分野において産学共同は悪いはずはない.悪いのは公の大学人が倫理を欠いた場合である.大学人らしい研究をしておれば結果的に“特定の企業に利することがあっても回り回って社会を利することであり,そんな利することができる研究は素晴らしい”という価値観にシフトしてきたのである.“大学人らしい研究とは基礎的・独創的・普遍的で波及効果のある研究であって,特定企業の手足になるような目先の即物的ではない研究”のことである.これは絶対的に重要なことで,これを踏み外してはならないと大抵の大学人は思っている.このような意識で研究をするし,研究助成などを選考する学者もそのような価値観で選ぶので,公の研究で企業を利させよといっても中々難しいことである.某県の知事が大学の学者に期待して何年間にわたり何十件という研究にお金を出して県内の産業振興を図ろうとした.研究報告書は殆どがその研究に成功したと記述されているが,何一つ実用になっていないので何とかならないかと言われた.単にお金を出して,大学に企業を通じて社会に役立つものを生み出せといっても,これ程難しいのも一つの現実である.
今は予算も増えて産学共同は当たり前で,成功例も枚挙にいとまがない程である.しかし初期の頃,産学協同の助成金の高額ぶりは目立った.お蔭で筆者も国から高額の助成金を頂くことができて研究を進めた.共同研究の相手企業はベンチャーを始めたばかりであった.この企業はまもなく「ファイバー砥石」なるユニークな製品を発売したが直後に欠陥が出て,全製品返品,取引停止を食らってあわや倒産となった.会社は七転八倒して数年をかけて立て直しを図り,現在は世界で最もユニークな砥石製造会社として世に知られている.筆者はこの経験で,実用化には研究以外の物凄い努力・才能・経験・人脈・幸運などが必要であることを知った.
社会に利するといっても大学の研究だけでは斯様に難しいことでもある.産学共同は,今から見れば,“公人が特定の企業を利することは悪”といったところにのみ目がいっていたことであり,“回って社会に利する”ところに重きを置けば奨励すべきことである.いま功績と見られることも寸前までは白い目で見られていた.一寸した違いだが,暗黙の常識・価値観は容易には変えられなかったのである.
[価値観の大転換]
筆者が停年を迎える頃になると,大学の価値観に天変地変が起きた.大学発ベンチャーの推進である.大学で公費を使ってやった研究成果を基に自分がベンチャーを始めるなどとは“学者の風上にも置けないとんでもないこと”と思われていた.突如,それは素晴らしいことで,大金を持って奨励され,それが出来るのは有能な教授だと称賛され出した.まさに世界が180度逆転した.北極と南極がひっくり返り,南十字星が天頂に来たようなものである.
このパラダイムシフトに目ぱちくりの筆者はそれが素晴らしいことだと評価されるならば,大学でやった研究で社会に還元することができる最善の道だと悟りを啓いた.国から2億円も大金をあげるという話が出たので,悪乗りして応募,物凄い激戦であったが採択されたことが停年後の人生を決めた.インクジェットプリンターに似た方法で溶融メタルを噴射してなにかを実現する研究である.今から13年も前になるが 研究費を頂き,3年間自分を含め5名の研究者を雇い研究をした.学者にとってまさに極楽である.この研究を終えてベンチャーを始めたが,こんな筆舌に尽くし難い恩恵があってもベンチャーはそんなに生易しくはない.やってみると,ベンチャーを始めるなど学者の風上にも置けないなどと言う人間は,やろうにもやれない人間の“ひがみ”であると実感する.まさに見方が変わった.研究で如何に良いものでも,事業として見るとそんなに甘いものではない.机上でうまくいくという学者に,それを何年保証してもらえますかと問われたとき,未だテストできていませんでは済まされない.この分野の事業の経験が無く,のれんも人脈も無い中,人を確保し,宣伝・販売・アフターサービス費用など従来考えもしなかった目に見えない費用が馬鹿でかく,これを入れて競争力がないとベンチャーなどできる訳はない.ベンチャーを始めようと相談に来た後輩も私の経験談で何人かは取り止めた.筆者と同時期に同額の助成を受けた研究者も何人かは事業化を取り止めた.実用どころかそれよりはるかに難しいベンチャーに耐えるのは大変なことである.ベンチャーを始めることが大学の研究の目的化してはならないが,研究結果がベンチャーに生きるのは素晴らしいことである.大学の評価の一つに大学発ベンチャーの項目が挙げられているが,むべなるかなと思う.
[その後]
ベンチャーを始めてみると企業人と大学人との間にあまりにも大きな価値観・カルチャーの違いに驚く.大学人はどんな有名人の論文も実験・分析などのデータがないと何も信じないが,企業人はデータなど信じない.取引銀行・納入企業などブランドを信じる.宮内庁御用達なら安心という志向である.大学の経理掛は物を購入するとき企業の納入実績を求めることからもお分かりいただけると思う.大学人は新規性を求める新しがり屋で,どこかで使っていることを嫌う.企業人はどこかで使った実績がないことを恐れる.問題が起こって身に降りかかることを避けるべく保守的である.立場が違うとカルチャーが違う.
12年以上前の筆者が現役の頃,停年で辞めた教官には講義を依頼しないことになっていた.停年の趣旨からしてこれは「是」であった.筆者は今75歳である.頼まれて大学でベンチャーの講義の一部を担当している.時代が常識を変えた.大学紛争のころ学生にベンチャーの講義などしたら,殺されて(?)いたかもしれないが,今の学生は何の抵抗もなく歓迎し300人もの聴講がある.
[終わりに]
今,自動車の安全を求めて,ハンドル・ブレーキを自動化する研究もなされている.これは人の五感を退化させることに繋がる恐れがある.アラブの紛争もゲリラ戦争が行われている反面,ゲーム感覚の空爆・ミサイル攻撃も目にした.iPS細胞を使って臓器の再生治療もなされ,何かが大きく変わろうとしている.この先の常識・価値観は変わることは間違いない.