会長退任のご挨拶

 会長挨拶

 特別寄稿

 平成12年東山会新年会の報告

 会員からのたより

 新任・着任の先生のご挨拶

 退官の先生のご挨拶

 各地からのたより

 東山会平成11年度庶務報告


会長退任のご挨拶

前会長
尾藤三郎(第12回、昭和28年卒)

元会長の大野憲三氏から、再々、小室前会長の後を受けて、東山会の会長にとすすめられて、お引き受けして、早、4年勤めさせていただきました。

その間、副会長の、村上、山口、両先生をはじめ、学内、学外理事の皆様方の大変な、ご協力のお陰で、東山会が運営できた事に、大変感謝しております。

私事ですが、私は人様の面倒を見るのが大変不得手で、東山会が機械工学系のOBの会である事は知っていましたが、まさか、こんな大役をお受けするとは考えても居ませんでした。平成8年5月の第1回理事会で小室会長からバトンを渡されスタートを切りました。平成9年度の東山会のメインの行事として、東山会基金の設立があげられます。第一回卒業の先輩のご寄付を原資として発足しました。この基金をもとに東山賞を設け、卒業式の日に、学業の極めて優秀な卒業生に授与する事としました。

また、平成9年6月13日、(名大祭の期間中)に、「東山へ帰る日」祝賀会、懇親会、を行いました。名古屋大学機械系学科を卒業後50年以上の方々を、お迎えして母校の現状を視察戴き、旧懐をあたため、ご懇談いただく場といたしました。この時の貴重な資料が機械学科50年史にまとめられたものです。これは隔年で実施しております。

私の会長在任中に、名簿発行以外に行事を増やしたことで、学内理事の方々には、大変ご迷惑をおかけしたことをお詫びすると共に、感謝いたしております。

社会も、産業、経済の構造も大変革の時期を迎えております。世の中の仕紺みが変わる。スピードが変わる。情報の組み合わせが変わる事で、大きな転機を迎えようとしています。

鈴木隆充会長をはじめ、新しい理事の皆様のご活躍を期待するとともに、会員の皆様の東山会に対する一層のご協力をお願いして、退任の挨拶とさせていただきます。

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会長挨拶

“東山に帰ろう”

会長
鈴木隆充(第17回、昭和33年卒)

東山会会長にご指名を受けました。よろしくお願いします。

私は通動に母校の校舎を分断する四谷通を利用しています。毎日、母校を眺めて昔を思い出し、時の流れを感じています。

指導教官だった大久保肇先生の言葉をいくつか思い出します。

「大学は基礎を身につけるところ、社会に出ればすぐ頭に入るようなことは後でいいから、今は基礎をみっちりやれ」と、ご自分の専門の材力・応力の大切さを説かれました。材力・応力に限りませんが、振りかえってみて、そのとおりだったと思います。

また、卒論の原稿を書く段になって「下書きは一行書いたら、二行あけて私に見せなさい」といわれました。返された時、下書きは真っ赤に添削され、長さは三分の一になっていました。無駄な文節、要らない修飾語、無意味な重複が一掃されていました。

当時の修士課程は小家族で、まとまりがよく、よく一緒に行動しました。全員四名で、その一人は今は名誉教授の近藤一義君ですが、南アルプス北岳に挑んだことがありました。鉄砲水に会いましたが、危うく難を逃れました。力を合わせて行動できたからだったと恩っています。

思い出は尽きません。東山に回帰の心が募るこのごろです。

東山会会員にはいろんな人がいると思います。

第一線にあって意気盛んな人、一線は退いたが鋭い目で世を眺めている人、別の社会で味のある人生を送っている人、など。

東山会の会合の場で、また誌上で、それぞれの出来事を語りましょう。

後輩に伝え、多才な人物の出現を期待したいと思います。そのために“先輩としてできることは何か”を考えましょう。

東山会として、できることをやりたいと思います。

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特別寄稿

“工業立国日本を東山会で支えよう”

アイシン精機且謦役会長
和田明宏(第15回、昭和37年卒)

10年前のバブル時代には物作りと直接関係のない銀行・証券・商社などが脚光を浴ぴていたが、昨今様変わりとなり工業立国が叫ばれているのは天然資源の乏しい我が国にあっては当然のことである。中でも自動車産業を中心とする東海地方に期待が集まっているが、長びく不況のためすべての産業・企業が従来路線の延長では将来展望が開けない。今こそ厳しく大きな変革を通じて早期に国際的にも競合し得る強い体質に切換えねばならない状況にある。

この中で“不況の時程固有技術が評価され、多くの仕事を頼まれるような企業であるべきだ。”と自慢の製品を前に自説を披露される先輩にお会いして深い感銘を受けたが、さらに“技術者は年令とは無関係に常に若々しくユニークな発想を駆使し、1$が80円と言う円高にも国際競争力を維持出来る商品を生み出して行かねばならない。日本を支える道はこれ以外にはない。且つ東海地方こそその原動力となるべきである。”と力説された。全く同感である。幸い東山会の大半の方々は当地で活躍中と思う。工業立国日本の未来を磐石なものとするためにそれぞれの立場で精一杯の頑張りをして行きたいものである。

ところで文部省はもとより多くの有職者から日本の教育システムに対する見直しが求められて来た。特に大学のあり方については近年精力的な論議がなされ諸制度の見直しが実施されたが、今後も独立法人化を目指しさらなる改革が行われようとしている。私共としてはこの機に名古屋大学が日本を代表する国際的な大学に変身される事を期待したい。そこで私学の卒業生に比べ帰属意識の薄い公立卒業生の中、特にその傾向が強い東山会会員は大いに反省し、経年と共にいたづらに東山会の名簿を厚くするのみでなく、母校の中味を厚くし眞に工業立国を支える名古屋大学となる様協力して行く事が出来ればと願っている。

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平成12年度東山会新年同窓会の報告

平成10,11年度事業理事
大見厚志(第26回、昭和42年卒)

平成12年度新年同窓会がl月4日午後l時から名鉄ニューグランドホテルで開催されました。今年は藤田完生と司会をさせていたたきました。

まず東山会総会で始まり尾藤会長挨拶、庶務、会計報告、会計監査報告がなされ承認された。

続いで懇親会にはいりました。今年はバチコフ教授のスピーチがあり、例年とは違った趣がありました。

弊社(アイシン精機)には67名の東山会会員がいますが、毎年数名の参加しかなく、世話人としても大変申し訳なく思っています。

私は平成3年の第l回から皆出席ですが、最初の頃ば、在学中たいへん不出来たったことが崇っで、大学の敷居が高く、入社しで20年、大学との交流がまったくないという状況たったので、懇親会の席で先生がたと親しくお話するなどとんでもないという感じで、会を楽しむどころではありませんでした。

ところが、その後求人のお願い、大学との共同研究等で諸先生と会話が出来るようになり、最近の新年同窓会ではやっと会を楽しめるようになりました。

近年では技術の進歩が激しく、幅も広がってきています。この様な状況で開発のスピードを上げるためには、大学との連携、場合によっては他社との連携が不可欠です。新年同窓会ではいろんな企業の方々、諸先生方が一堂に会しており情報交換には最適とおもいます。そんな、こんなの良い面を弊社東山会会員(若い)にしっかり伝えて、次回からは大挙して新年同窓会に参加させていただく所存です。

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会員からのたより

晴耕雨読

三重大学名誉教授
葛原定郎(第9回、昭和25年卒)

9回生として東山を巣立ってから50年を経過した。実に半生紀。時代も変った。会報に投稿を依頼され、改めて昔日を振り返ってみると、在学時代が昨日のことのように甦ってくる。2年前に「名古屋大学機械工学教室史誌」が発行された時にも、寄稿させていただく機会を得た。名古屋大学50年史(1989年刊)と同写真集(1991年刊)と共に、再び繙いて、連日の炎暑の午後を凌いでいる。

私は卒業と同時に、郷里の三重大学に奉職し、退職後は名古屋市内の私学に勤め、70才まで若い学生諸君を相手に、仕事をすることができた。学会や協会を通じて、母校と深い関係を持つことができ、恩師や多くの同僚や後輩の方々にも大変お世話になった。

完全に職を退いてからは、田舎に引き籠って自然を相手に、気楽に日々を送ることが出来ることは有難いことである。

それにしても、最近の大学を取り巻く環境と、学生気質の余りにも急激な変化には驚かざるを得ない。急速に進む法人化の問題など、教職員各位の御苦労は並大抵なことではないだろう。太平洋戦争終結直後の、苦しい中にも螢雪の時代を送った東山の昔が、しきりに懐かしい。キャンパスも整備され、地下鉄も開通して便利になる母校が、外観内実共にますます発展することを祈念したい。

仕事を完全に離れてしまうと、曜日が分からなくなることがある。惚けないように、新聞や送られてくる会誌等は丹念に目を通し、TVはあまり見ない。PCは勿論、ワープロも使わず専ら筆記。車よりは自転車、自転車よりは歩くことに留意している。そして快食、快眠、朝は早い。古稀を5年も過ぎて、健康に消光できることに感謝したい。古社寺巡拝にでかけられるのも有難いことである。


山登りと人生

日本純薬(株)代表取締役社長
高尾侃民(第19回、昭和35年卒)

現在東京の西端日野市に居をかまえている。近くには四季折々変化する魅力ある中、低山が多くある。日帰り可能な山々である。

妻に引張られて時々同伴するが、腹が少し太り気味の自分にとってはいくら低山といえども登りは少々きつい。昔時々高山に登った経験、スポーツで鍛えた体ということで気カで預張っている。重力に逆らった大仕事の後、山頂からの展望、爽快感に接する時今迄の苦痛は何処かへ飛んでいってしまう。下りは体力的には楽であるが膝に体重がかかり、所謂“膝実い”現象が起ったり、足首の捻挫を起すことがある。下り方もなかなか難しいものである。無事下山、麓での温泉、冷えたビールで一杯は堪えられない一時である。

この低山ハイキングを時々自分の一生にだぶらせて考えることがある。社会に出て40年、昨年春より第二の会社勤めに移っている。社会に出た昭和35年頃は、敗戦後の復興もようやく軌道に乗り始め、高度成長への第一歩を踏み入れた時期であった。石油化学の勃興期でもあった。私も化学会社の一ケミカルエンジニヤとして入社と同時にプラント建設に従事するようになった。当時はプラントが完了すると即フル操業、次の建設を突貫工事で仕上げると又次のプラントという状況が約10年問続いた。それこそ「月月火水木金金」の毎日であり今から振り返ってよく体力がもったものだという感じである。

プラントが完成し、製品の姿を見た時の達成感から来る感激は、丁度苦しい山登りの後、頂上をきわめた時の感激と同感のものがある。“まだやるぞ”という自信、勇気が湧いてくる。我々の年代の皆様にも同じような経験、感じを持っておられる方が多いのではないか。その意味で長い不況下にあるこの時期に、働き盛りの若い人達に同情の念を抱くのは私ばかりであろうか。

最近IT草命の時代という事で、変化の速い、創造的発想に墓づいた新しいビジネス展開が想定されている。新しい感覚、創造に満ちた若い人達の活躍の時代ではないか。大いに頑張ってもらいたいものだと思っている。扨て今後の自分については、体力に合った山(目的)を体力の許す限り登って(果して)みたいと思っている。他人に迷惑をかけず自分の足で登りから下りまでしっかりと歩むことが出来たら万万歳である。


百名山完登を目指して

東京商船大学
伊藤雅則(第29回昭和45年卒)

学生時代、家が近いこともあって鈴鹿の山へ出掛けていたのがきっかけで、修士を終え会社に入り東京で生活するようになってから、仕事の合間を縫って八ケ岳や南アルプスヘ行くことが多くなりました。サラリーマンの山行ですので、夜行一泊二日が普通ですが、仕事が混んできて、連日残業が続くときなどは無性に出掛けたくなります。青い空や美しい花に接すると全てを忘れてしまいます。すっかりリフレッシュして翌週からまた残業の一週間。当時造船業は絶頂期にあり、オイルショックまでは月150時間をこえる残業は当たり前と言った状況でしたから、この山行が何よりも貴重なものでした。今では誰もが周知している“仕事人間”にならないための方策としての一人一趣味。このことが真面目に論議された時代です。

かつて、加藤文太郎という三菱重工神戸造船所に勤めていた登山家が、冬期雪洞でビバーク中、雪の動きを見てディーゼルエンジンのスワールを思いついたと言う話がありますが、仕事に行き詰まったとき山へ出掛けて頭の中を空っぼにすると突然アイデアが閃くことが何度かありました。山の功罪と言えるものなのか、アイデアは周りに漂うもやもやを切り捨てることで生まれると言うのが自分なりにたどり着いた結論なのですが如何でしょうか?

その後、会社での立場が変わり、技術が次第に遠ざかる中、人事や組織管理面でのストレスを抱えて相変わらず山に出掛けました。折から、若者の山離れが進み、新宿駅のコンコースに列をなしたのは昔日のこと。発車直前の列車でも空席があり、ザックを背負っていると肩身の狭くなる思いをして東京から逃げ出していました。

会社の若い人たちの趣味は多様と思っていたのですが、入社試験などで話を聞くと趣味と言えるものはなさそう。無趣味と言った方が当たっているようで、これからの厳しい状況にどう対応するのか、気掛かりになります。

最近の百名山ブームが取り沙汰されますが、その中心が我々を含めた中高年層、つまり、仕事人問の行き着いたところのような気がします。ただ、時として、完登を急ぐあまり傍若無人ぶりが目に付くことがあり、何のための山登りか問いたくなります。と言う自分も、完登まであと30座ほどとなり、早くと言う気持ちと急がなくてもと言う気持ちが交錯しております。

最近、大学に職を得て会社を離れましたが、仕事柄、船に乗り海に出ることが多く、黒潮の群青色に接すると山に相通じるものを感じます。最近の学生気質に少し戸惑いながらも自分が会社の人問として身につけたものの一端を伝えることが出来ればと思いつつ学生を相手にしております。


この頃考える事

三菱重工業(株)
大橋義仁(第39回、昭和55年卒)

私は大学を出てから三菱重工業株式会社に入り、今まで設計の仕事に従事してきました。

今まで、建設機械の油圧部品に携ってから航空機の油圧部品、ロケット、衛星に使用する圧力センサの開発、飛翔体の制御装置、ガスタービンエンジンを使った小型の非常用発電装置そして今は液体空気をつかった発電所向けのガスタービン吸気冷却装置の仕事をやっています。

いろいろな製品、お客さんそして工場の中でもいろいろな部署の人と関連する事が出来て良かったと感じています。製品として外から見ると航空宇宙に関っていると華々しい印象を受けると思いますが、実態はどんな仕事も同じで、物理現象に対し、地道な計算や検討の積重ねにより成立っており、全体を考える人はいますが、各部分を担当する専門家が支えているといえます。

仕事をしていく上において大事だと思うのは、何の為にしているのかを見失わないことだと思います。当然給料をもらうことも大事ですが、良い製品を作って客先に喜んでもらう、完成させて充実感を味わう、新しい技術や、知識、経験を得て成長する、周りの人に認められる、尊敬を得る等いろいろなことが考えられます。仕事で厳しい時に一生懸命にしている時の仲間は、後になってもずっと信頼関係を維持し、付き合っていけるものと思います。

こうして考えると、仕事は自分の為にやっているのだと思うのです。当然作業指示は受けるのですが、その仕事を自分の作業として自分の特色を生かしてやろうとすると、気持ちもずいぶん楽になるし、成長もすると思うのです。

昨今ずさんな管理とか、手抜き作業とかで社会問題を起した会社がありましたが、この対策としては細かいマニユアルを整備してそのとおりやらせるというだけでなく、携わっている人に作業の重要性を認識してもらい、この製品は私が作ったのだという自分の仕事として誇りを持ってするようにしていくことも大事だと思うのです。


チャレンジする事の大切さ

豊田工機株式会社新規事業部
鈴木博之(第49回、平成2年卒)

早いもので卒業して8年が過ぎましたが、楽しかった在学時のことは末だに昨日のことのように思い出されます。ただ、真っ先に思い出されるのは、実験室での研究のことではなく近藤先生をはじめ助手の山田先生、技官の干田さんや、個性豊かな先輩達とのテニス、山登り、魚釣り、講座旅行などよく遊んでいただいた記憶ばかりです。当時は真っ黒に日焼けした先生や先輩達に囲まれ、ただ楽しかったで終わっていましたが、今になってみると、スポーツにしても遊ぴにしても決して手を抜かず常に全力で取り組むことの大切さを身をもって教えてくださっていたのだなと恩います。

卒業後、CBN砥石の開発、高速切削加工技術の開発といった加工技術関係の開発業務を担当してきましたが、98年よりこれまでとは全く分野の違う新規事業部に転部し、現在新規事業の立ち上げに向け悪戦苦闘の毎日を送っています。世の中が大きく変わろうとしている中で会社も大きな変革期にあり、会社を構成する個人にもそれぞれの立場でチャレンジしていく事が、これまで以上に強く望まれていると思います。新規事業という末知の世界で、しりごみせずにこれまでなんとかやってこられたのは、学生時代に教えていただいた何に対しても常に全力で取り組むという姿勢を貫けたからだと思います。まったく分野は違いますが、今でもこんな時近藤先生なら、山田先生なら、干田さんならどう考えるんだろうと自問自答しながら日々の業務に取り組んでいます。

最後に東山会の皆様の益々のご活躍を期待しつつ、それを励みに自分もがんばっていきたいと恩います。


社会人になって

(株)三晃空調
佐藤公則(第59回、平成12年卒)

私はこの4月から社会人の仲問入りをしました。ここでは、4月から始まった研修の内容や、その研修を受けて感じたことを述べたいと思います。

まず4月の1ケ月間は、社会人としてのマナーや仕事の概略を教えていただきました。

5月からは各部署での研修でした。最初に設計部において研修があり、衛生・空調それぞれの負荷計算をすることから、機器の選定、製図まで設備設計の一連の作業をさせてもらいました。約1ケ月の設計研修に続き、次は現場研修で、私が研修を受けた現場は工期が約4年という大変大きな現場でした。それまで工事現場に入ったことすらない私にとって、見るものすべてが珍しく、また勉強になることばかりでした。この現場研修のあとは施工図研修、CAD研修、積算研修と続き、最後には工場見学としてメーカーを何カ所か見学することができ、大変な時もありましたがとても充実した日々であったと思います。

以上が私の受けた研修の内容ですが、この研修を受けて感じたことが幾つかあります。第lに人との付き合い方が学生時代とは異なり、人間関係をうまく保つためにはまず、挨拶を自ら率先して行うことが大切であること、第2に現場又は職場の雰囲気に早く慣れないと何も始まらないこと、第3に、わからないことは、この新人と言われる時期に必ず解決しておかなければならないこと、第4に自分のなすことには責任をもち、如何なる時にもベストを尽くさなければならないこと、第5に、学生時代に少しでも実務に関する勉強をしておくべきであるということ、です。

“学生生活は楽だった”とは思いませんが、社会に出るとまた違った大変さがあるということをこの研修期間で実感しました。そして、この夏以降は名古屋支店に配属されることになり、いろいろと壁に突き当たることがあるかもしれませんが、決して妥協することなく精一杯頑張っていきたいと思います。

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新任・着任の先生のご挨拶

本年度は、機械工学教室に田中拓講師(連続体工学講座)、趙黛青講師(ヒューマンシステム工学講座)、來海博央助手(連続体工学講座)、山本創太助手(機械情報処理講座)、機械工学教室と関連の深いマイクロシステム工学教室に福澤健二助教授(マイクロ計測工学講座)、中西淳助手(マイクロ制御工学講座)が新しく着任されました。また、ヒューマンライフ支援バイオメカニクス(トヨタ寄付)講座の田中英一教授は、寄付講座の終了に伴い機械情報処理講座に着任されました。田中講師、福澤助教授から東山会会員の皆様にご挨拶を賜りましたので、ご披露させていただきます。

なお、機械情報システム工学専攻の水野衛講師は秋田県立大学、マイクロシステム工学専攻の安藤嘉則講師は群馬大学へご栄転されました。


新任挨拶

マイクロシステム工学専攻
福澤健二

平成12年4月1日付けでマイクロシステム工学専攻マイクロ計測工学講座(三矢保永教授)の助教授に着任いたしました。本講座は、電子機械工学専攻の知能計測工学講座も併担しております。私は、八田一郎教授のご指導のもと昭和63年3月に本学工学研究科の応用物理学専攻の修士課程を終了後、日本電信電話株式会社(NTT)に入社し13年間研究所に勤務した後、本年3月に退職して現職に着任いたしました。電話会社であるNTTの中では珍しいメカトロニクス技術を中心とした研究所に配属され、光を使った計測の研究の仕事に従事し、特に半導体微細加工技術を応用して作製されるマイクロマシンの微視的な計測への応用を進めて参りました。また、研究管理的な仕事も少しさせていただき、企業において研究所を運営していくことの難しさも多少坦間みることができました。企業におりますと研究所といえども体系的な研究をじっくり行うことが難しく、今後は計測技術を中心として腰を据えた研究を展開していければと思っております。

企業から大学に移って思ったことは、大学も変革の時代にあるということでした。内心もっとのんびりした雰囲気を期待しておりましたが、世の中そんなに甘くはないようです。私の所属する講座も流動型大学院システムということで、マイクロシステム工学専攻と電子機械工学専攻の両者に属す形になっています。また、工学部関連でも大きなビルが建てられ、最近では大学の中で生まれた技術を産業界に移転するためのTLOと呼ばれる機関が発足いたしました。私が学生だった頃の十数年前の大学に比べ、ずいぶん様変わりしたという印象を受けております。白分の実力を考えるとはなはだ心許ないですが、こうした変革の状況も好機と考えて、教育研究活動を行っていきたいと思っております。

若輩者ゆえ東山会の皆様には、今後何かとお世話になる機会も多いと存じますが、いっそうのご指導、ご鞭捷のほどよろしくお願い申し上げます。


新任挨拶

難処理人工物研究センター
機械工学専攻兼担
田中拓

平成11年11月1日付で本学の難処理人工物研究センターの講師に就任し、機械工学専攻の兼担として教室関係の講議・研究指導をお手伝いさせて頂くことになりました。平成元年3月に京都大学工学部物理工学科を卒業し、同大学大学院修士課程を経て、平成3年4月より本学の機械工学専攻の助手を務め、今日に至っております。

これまでは、繊維強化プラスチック績層板をはじめとする先端材料を対象として、その破壊解析や疲労寿命評価などを主な研究テーマとしてまいりました。その間、学生時代からお世話頂いている連続体工学講座の田中啓介教授、秋庭義明助教授をはじめとして、本教室の数多くの先生方からご指導を頂き、大変恵まれた環境で研究生活を送らせて頂きました。現在所属している難処理人工物研究センターは、適正処理が困難な有害廃棄物の無害化・再資源化に取り組んでいる研究機関であります。今後は、これまでに進めてきた「壊れにくい」材料開発に向けた研究の経験を活かして、廃棄物を「上手に壊す」プロセスの研究、ならびに「壊れにくい」リサイクル材料や環境調和型材料の開発に手を広げていきたいと考えております。

この4月から、講義等を通して学部学生達と接する機会が大幅に増えましたが、学生達が大学の講義に対して感じていることは、十数年前の自分の学生時代と比べて、意外に変わっていないような印象を受けております。これからも、当時の自分が考えていたことを忘れないように、微力ではございますが、教育面での工夫を心掛けていきたいと思います。

最後になりましたが、本学関係教室の先生方をはじめとして、東山会の皆様方には、色々とお世話になることが多いと思いますが、今後ともご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

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退官の先生のご挨拶

名古屋大学大学院工学研究科機械工学教室において、長い問研究と教育にご尽力されました山口勝美先生(超精密工学講座)、村上澄男先生(機械情報処理講座)、阿部久先生が、今年3月名古屋大学を定年退官されました。またヒューマンライフ支援バイオメカニクス(トヨタ)寄付講座に客員教授として着任されていました Janusz Kajzer 先生が、今年3月寄付講座の終了に伴い、退官されました。退官された先生方から東山会会員へご挨拶を賜りましたのでご披露させていただきます。また、各先生方になじみの深い方々から先生の恩い出などを語っていただきました。


60才からでも遅くはない?

山口勝美(第19回、昭和35年卒)

停年に際して何か書くように依頼されたが、半年前には『名大トピックス』という学内報に停年に際して一言書かされた。その時「50才からでも遅くはない」というタイトルで書いた。内容は、今やっている研究は全て50才を越えてから発想したものばかりである。その研究で飯も食えたし、充分な評価も得たと思っている。その証拠に研究費も何億と余る程いただけたし、賞もいただけた。一方、英会話を50才から始めたが、何とか使い物になって今では国際会議でも国際協力事業団のお手伝いでも人並みにやれている。ゴルフも50才を越えてから始めたが工学部教官コンペで歴代のベストスコアーを出すことができた。50才より前にはこんな事ができるとは思ってもいなかった。60才になってからこんなことが出来たことに初めて気がついた。どうか後輩の皆さん、今からでも遅くはない、新境地が開ける、何でも発奮してがんばって下さい、と書いたのである。

思い起こすと、私は大学で講議をするのは好きではなかった。その理由は、講義は問題意識の無い学生を対象に単に“知識の受け売り”をしているに過ぎないからである。10年程前から或る県の依頼で中小企業の技術相談の仕事をやってきたが、これは随分楽しいと思った。困った問題を抱え技術相談にくるエンジニアに自分の知識だけで何も対処できない。そんな時、このようなテストをすればその問題の原因が分かるでしょう、こうしてみれば解決する糸口が分かるでしょう、といった指導をしてきた。このことはあまり意識をしていなかったが、“知恵を教えている”わけで、自分の知恵を出す喜ぴと結果が出て感謝される喜びを味わっていた。人から聞いた知識を何の問題も抱えていない学生に受け売りするのとは大きな違いである。特別研究、修士研究等は先生が学生に“知恵を教える”機会であったが、疎まれたことはあっても遂に学生から感謝された記憶がない。こんなわけで、停年後は楽しみながら“知恵を生む、使う、教える”ような仕事をしたいと願っていた。

停年後、在職中に共同研究をやってきた企業に入り、特殊な砥石の製作を手掛けると共に、その企業を始め多くの企業の支援をえて事務所を開き、『メタルジェットをつかった構造体の製作』と言う新技術の開発をも手掛けることで知恵を使って大いに楽しむことができ始めていた。しかし、ここに来て、欲を出し過ぎて国の研究成果実用化事業にこの研究を応募したところ、15倍の難関の中、何億円と言う技術開発支援事業に選ばれ、ベンチャーをめざすことに相なってしまった。このため、残念ながらまた今は準公務員のような身分になり、自由な発想や活動がひどく制限されるはめになった。こんなはずではない、痛恨の極みと書いたらお上からお叱りを受けること必至である。

考えてみると、自分は停年をすぎて新しいことを試み、その新鮮さに、嬉々として楽しみ、かつ又もがいてきた。今でも、在り来たりでないことを企てたいと思っている。大学で使った山のような資料を捨てることが出来てすっきりした。一方、ゴルフの方も最近20ヤード急に飛距離がのびた。体力強化などした訳では無い。飛ばす打ち方に気づいただけである。今は、走っても、飛んでも、投げても若いころに遥かに及ばないが、若い時には出来なかったこと、気付かなかったことがあるはずである。フリーエイジェントを手にした停年からまさに新境地が開けたら面白いと思っている。ダメでもともと。楽しんで、知恵を出し、世の中に役にたつことができたらこんなすばらしいことはない。これから始める言わばプリベンチャーの仕事がどのようになるか知らないが、50才ならぬ“60才からでも遅くはない”を書けたら面白いと思っている。


「へそ曲がりの研究」こそ研究の王道

名古屋大学大学院王学研究科機械工学尊攻
中本剛(第41回、昭和57年卒)

「ヘそ曲がりの研究」。山口勝美完生の最終講議に来られた皆様にはご存知のように、先生の最終講議の講演題目です。この題目に先生のご研究に対する姿勢が、よく表れていると思います。先生は他の研究者が研究された事柄や、いわゆる重箱の隅をつつくという研究は好まれず、自ら分野を開拓する斬新な研究、オリジナリティーあふれる研究を行っておられました。先生ご自身、御研究が好きでたまらないといったご様子で、御退官が近づいた頃でも、毎晩、遅くまでご研究に励んでおられました。

このように書くと、研究一辺倒の先生だったような印象があるかもしれませんが、多くの皆様がご存知のように、先生の御趣味は多岐にわたっておられます。特に、釣り、ゴルフ、テニスの腕前は相当なものです。私達の研究室では、毎年、先生に「沢登り」に連れていっていただくのが恒例となっておりました。本来でしたら、常日頃より先生のお世話になっている私達が準備しなければならないのに、先生自ら準備をしていただき、引率していただきました。川では、それこそ手品師のように次から次へと魚を釣られ、研究室のメンバーにふるまってくださいました。本研究室の卒業生には、大変に良い思い出となっております。

私達後進の者は先生の開拓された道をそのまま歩むのではなく、山口先生から御覧になられても「ヘそ曲がりの研究」に思われるような斬新な研究を行っていくことが、先生の御意志を受け継いだことになると考えております。先生は現在、「山口MJ研究所」を設立されて、御研究を続けておられます。先生の益々の御活躍と御健康を心よりお祈り申し上げます。


停年退官のご挨拶

村上澄男(第18回、昭和34年卒)

この春、45年間に亘ってお世話になりました名古屋大学を恙無く停年退官し、今は蒲郡の山裾にある小さな新設大学で若者の教育に勤しんでおります。これも偏に、学生時代から凡庸な私を慈しみ、育て、そして大きな誇りと憧れを与えて下さった機械工学教室の先生方、ならびに東山会の先輩、会員の皆様のご高配のお蔭と、厚く御礼申しヒげます。

大学院修士課程修了後の応用物理学科での6年間と、40才代半ばでの豊橋技術科学大学での4年間を機械工学教室から離れ、その発展と先生方のご活躍を、止み難い郷愁とともに仰ぎ見ておりました。それだけに、教官としての最後の歳月を、生まれ育った母校の教室で過ごすことが出来たことの幸せには、深く感謝しております。

特に研究者としては、恩師の大久保肇先生、大橋義夫先生には早くから、国際的研究活動のご薫陶を受け、お蔭様で、多くの世界の泰斗の謦咳に接し、あるいは彼らの厚誼・推輓にあずかることが出来ました。研究者としての生活を、国際的な碩学達の驥尾に付きながら、そして若くて優秀な同僚達のご協力により全う出来たことは、この道を選んだ者の冥利に尽きます。

名古屋大学機械工学教室に勤めさせて頂いたことのもう一つの大きな喜びは、昭和30年の入学時には、まだ双葉のような名古屋大学が、日本を代表する風格のある学問の森に成長するのを目のあたりにし、その発展の日々に立ち会うことが出来たことであります。特に、応用物理学科から機械学科へ所属換えした昭和42年には、機械工学教室は2学科13講座でありました。当時、旧帝国大学のほとんどが3〜4の機械系学科、20〜30講座を擁していたのに比べると、これはいかにも小規模であり、中部地方の中核大学としての役割が果たせるかどうか、大きな懸念が晴れませんでした。しかし昭和60年代からの有力大学の大学院童点化の潮流と、当時の工学部の中枢の先生方ならびに関係教室の先生方のご尽力により、電子機械工学科の4系(機械系)領域専攻への帰属とマイクロ・システムエ学専攻の創設が叶い、今では航空宇宙工学専攻を含めると5専攻26講座からなり、わが国有数の機械系専攻に発展しております。

いまわが国の国立大学には、独立行政法人化と教育・研究の国際標準化の荒波が押し寄せております。しかし、幸いにして立派に整備された研究・教育組織と、わが国の産業技術の集積地域という地の利に恵まれた機械工学教室は、今が大きな発展の時だと考えております。この教室から、新しい学問が創造され、多くの新時代の技術が生み出されるよう切に念じております。

末筆ながら、東山会ならびに東山会会員の皆様の一層のご発展をお祈り申し上げます。


「村上澄男先生の思い出」

田中英一(第31回、昭和47年卒)

村上澄男先生は本年3月31日をもちまして無事停年ご退官を迎えられました。45年間の長きに亘って教育と研究に直摯に取り組まれ、多数の有為な人材を育てられるとともに、損傷力学の学問体系の構築等、数多くの世界的学問業績を残されました。また大学の改組等にも力を尽くされ、今日機械系学科が5専攻26講座という他の旧制帝大に劣らない陣容を整えることができましたのも、先生のご努力があったからこそと思います。敬意と感謝の意を表するとともに、心からお祝い申し上げます。

さて、村上先生に初めてお目にかかったのは、私が昭和46年4月に機械学科材料力学講座に卒業研究配属された時です。当時完生の恩師の大橋義夫教授が講座主任で、先生はポーランド留学から帰国されたばかりの新進気鋭の助教授としてご活躍でした。言葉遣いが丁寧で身だしなみがよく、我々学生にはいささか近づきがたかったお姿が昨日のことのように思い出されます。

修士課程と博士課程は、直接の指導教官として、研究の進め方や論文の書き方から始まり、人生訓に至るまで、懇切丁寧にご指導いただきました。先生は機械学会賞論文賞を何度か授与されたことに象徴されますように、研究の着眼点がよく、またそれを発展させて一つの美しい理論体系にまとめ上げる能力に秀でておられ、さらにそれを文章として表現する力は抜群なものがあります。世界的に著名な多くの研究者から「村上はいい仕事をしている」との評判を受けられたり、原稿を添削していただいたものが等しく「村上先生は文章の達人である」とか、「文章のマジシャンである」という感想を述べていたことがそれを示しております。後のことになりますが、この能力は研究だけでなく学内マネージメントにも遺憾なく発揮され、いくつかの機械系学科関達の概算要求書類を中心となってまとめられ、それが現実に認められて予算化されていく過程を目の当たりに致しました。

このように大変能力がおありの方ですが、先生はご自身を律する大変厳しい一面もお持ちでした。先生の比較の対象は常に世界の超一流の研究者であり、何事につけても最善の努力をされ、決して手を抜かれませんでした。私事になりますが、世間並みのレベルを自分で設定し、適当に妥協してことを済まそうとして、何度かお叱りを受けたことを思い出します。日く、「いつも一流の人を基準に物事を考えなさい。決して自分の基準で安易に妥協してはならない」。「本当にできる人は大変困難な仕事でも気持ちよく引き受け、かついとも簡単そうに処理する。難しいとか、仕事が多すぎてできないとかの言訳をしないものだ」、さらに「人間というものは精一杯努力してなった結果なら、それがたとえ逆境であっても受け入れられるものだ。後で後悔しないように常に最善を尽くしなさい」、等々。

先生が豊橋技術科学大学から教授として戻られてから私が寄付講座に出るまでは上司として、私が寄付講座に出てからは後見役として、一貫して大変親身にご指導ご鞭捷を戴きました。その間15年程になりますが、上で述べたことに加えて、「大学のあるべき姿」だとか、「大学教授の職務とはなにか」、等について、非常に熱っぼく語っていただいたことを思い出します。私から見て先生は、能力があり、いささか生真面目すぎるほど真面目で、かつ基本的には性善説の立場に立つ前向き思考の非常に優れた教師です。そのことは先生にお世話になった多くの門下生が等しく認めるところであると思います。

今日、先生にお会いになられた方はすぐわかりますように、先生は精神的にも肉体的にも、そして見かけも大変若々しく、とても停年ご退官というイメージではありません。今後とも現役時代と同様に、私共にご指導ご鞭捷を戴けるものと確信いたしております。


大学の行方

阿部久

昭和42年から33年間を名古屋大学で教職生活を送って参りましたが、その大部分を教養部で理系に対する基礎としての物理学あるいは文系に対する一般教養としての物理学を受け持つことで過ごして参りました。私が名大に着任した頃は全国的に大学紛争が燃え盛る時期で、教養部での授業を担当することになってから直ぐに各種の学生集会に対応するべく全教員が動員され、連日のように教官会議が開かれておちおち授業を行うどころではありませんでした。間もなく教養部の建物が封鎖され、数カ月間にわたって教育研究の機能停止の状態に陥ったことが思い出されます。紛争が落ち着いて見ると、少なくとも外形的には大学のシステムは何等の変化も被ることなく日々の営みを続けてきたように見え、全国を風靡した大学紛争が一体何であったのだろうかとの感を持ちます。しかし大学の外部の人達に対しては、その耳目を大学の研究教育システムに集中させたことの意味はあったように思います。

現在、大学はまた変革を追られる環境にさらされています。ただ今回の改革は、大学構成員からの内発的な改革意欲に基づくものではなく、行政改革の一環として独立法人化の形で改革が進められようとしています。折しもの少子化の進行と相俟って大学の中には定員割れの状況に追い込まれているところも少なくありませんが、教青の場にも市場原理の導入を求める声も聞かれます。大学運営の政策策定に当たって、費用対効果の視点が過度に強調されはしないかとの心配が杞憂であれば幸いです。

いずれにしても今後の大学は、その組織だけではなく学生の質の面でも大さく変化することが予想されます。今後の大学の変化の行方を見定めるには、私に残されている時間が十分ではないかもしれませんが、これからも大いなる関心を持って見守ってゆきたいと思います。


阿部先生の思い出

菊山功嗣(第23回、昭和39年卒)

私と阿部先生との初めての出会いは、恐らく大学紛争の時であったと恩います。当時教養部は、“大学解体”を叫ぶ一部学生に占拠され、教養部の教育、研究の場が奪われていた時でした。私は工学部の組合選出の執行委員として、阿部先生は教養部の組合選出の執行委員として、当面した課題解決にむけて何度かの会議にご一緒したことを記憶しています。

時が経って、工学部の重点化と教養部の廃正を迎えることになり、教養部の物理を担当された先生のうち3名の方が工学部所属になることになり、うち1名を機械教室に迎えることになりました。教室としては阿部先生に来ていただくことを決めましたが、そのとき私は白分の専門の流体力学とは無関係の電磁気学の講議を担当させられており、不馴れな講議に精神的にも能力的にも大きな負担となっていたときであり、阿部先生が来ていただければ、電磁気学から逃れられるチャンスと考え、内心大いにうれしく思ったことを覚えています。期待に違わず、先生は豊かな経験と、実直な態度で講議を担当され、多くの学生に深い感銘を与えられました。先生のご停年後は、再度私が電磁気学担当として復活することになりましたが、先生から譲り受けた几帳面な講議ノートと演習問題集を頼りにしており、先生に感謝しております。

先生は機械教室のメンバーになられてからも、物理屋としての理論的な考察と、実直な態度で教室の諸問題に取り組んで下さいました。特に停年前の2年間は機械、マイクロの就職担当として、学生、院生諸君の希望調整と企業との対応という非常に労力のいる仕事を引き受けて頂き、先生のおかげで現在の企業で活躍している卒業生がたくさん居られると思います。

先生はご停年直前に奥様を亡くされ、今後の生活設計の変更を余儀なくされ、その悲しみと苦しみは他からは想像できないことであります。どうか一日も早くこの辛さから立ち直られることともに、先生の今後のご健康をお祈り申し上げます。


ヤヌシュ・カイザー教授の思い出

山本創太(第53回、平成6年卒)

ヤヌシュ・カイザー先生と初めてお目にかかったのは、平成8年の夏のことでした。当時私は某企業に在職しており、カイザー先生と共にトヨタ寄附講座の教授であられた田中英一先生をご訪問した折りにご挨拶をさせていたたきました。大学院で私が学んだ内容や、会社での業務について、つたない英語で話す私に、辛抱強くお付き合いくださったことをよく覚えております。翌週から、自由参加であった英語の社内研修にも熱が入るようになりました。

その後、縁があってトヨタ寄附講座に助手として奉職することとなり、カイザー先生の下で研究を行うこととなりました。カイザー先生は、インパクトバイオメカニクス、傷害防止工学を専門とされておられます。講座設立当時の日本では、大学が扱う研究分野としては一般的ではありませんでしたが、カイザー先生は名大をこの分野を学術的にリードする拠点とすべく、多くの自動車会社や関連産業、研究機関と積極的に交流をもち、学内外の研究者を熱心にご指導されました。現在では、自動車の衝突安全、歩行者の保護、チャイルドシートの使用について、あちらこちらで取上げられておりますが、カイザー先生も新聞、雑誌、テレビ等の取材に積極的に応じ、一般への啓蒙にも積極的でした。

私がカイサー先生から教えを受け、現在も糧としていることは、学問面での知識はもちろんのことですが、研究、仕事のスタイルでありました。グローバルな舞台で仕事をするならば、どのようなモチベーションを持ち続けるべきか、ということを繰返し教えられました。名古屋を離れられる際には、先生のご指導の下で開始した靱帯、筋肉に関する研究を是非大成させて欲しい、とエールをいただきました。現在も大学院生とともに奮闘中であり、少しでも早く先生に成果をお見せしなくては、と思っております。

カイザー先生は現在、母国スウェーデンで技術コンサルタント業を営まれております。今後の先生のますますのご活躍を祈念いたしております。

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各地からのたより

関西支部便り

関西支部副支部長
清水義一(第15回、昭和31年卒)

平成11年度、第37回東山会関西支部総会が平成11年11月6日(土)午後4時から午後8時にかけて大阪中央電気倶楽部で34名の参加者を得て盛大に行われました。午後4時から午後5時半の講演会では、胃頭ご来賓の田中啓介名古屋大学教授(機械工学専攻)から「大学の近況について」と題してお話をお聴きしました。8大学における大学院重点化、名古屋大学学章の制定、最近5年間の卒業生の進路(学部では大学院進学が63%、修士課程では機械関係63%、電子、電気、情報関係20%)、国立大学の独立法人化の問題等最近の学内事情に対する認識を大いに深めました。引き続き大阪ガス環境部次長の和田滋憲氏から「環境問題の現状と企業の対応」と題して、環境問題の1960年からの変遷、環境関連法規の法制化の概要、環境経営とかなり専門的に突っ込んだお話をお聞きしました。午後5時半から総会に移り支部長挨拶、ご来賓田中教授挨拶、会計報告、会計監査報告、一般報告があり、承認されました。懇親会が午後6時から行われ、全員記念撮影の後、若手No.1清水徹氏(第36回、昭和48年卒)の音頭で乾杯、平成11年l0月28日(木)芦屋カンツリー倶楽部での参加者11名によるゴルフ同好会の模様を古河幹事より報告、平成11年10月30日(土)大阪中央電気供楽部での参加者7名による囲碁同好会の結果を青山幹事より報告、更に東山へ帰る日へ参加した感想を前田芳郎氏(第7回、昭和23年卒)が語り、互いに杯をかさね交歓しながら名司会の進行に従って参加者全員がショート・スピーチを行い、宴闌となった所で恒例の旧制高校寮歌、応援歌をグループで歌ったり、全員で斉唱したり大いに盛り上がり終始和気藹々のうちに午後8時盛会裏に終了しました。

本年度の支部総会は平成12年11月18日(土)16:00〜20:00大阪中央電気倶楽部(四つ橋筋堂島ホテル角西約50メーター入る)で開催いたします。名古屋大学から来責として早川義一教授(昭和39年卒、電子機械工学専攻)をお迎えすると共に東レエンシニアリング(株)兼松昭氏(第23回、昭和39年卒)の「新ミレニアムを迎えて」と題して講演を予定いたしております。支部会員には別途案内しますが、東山会会員なら誰でも飛び入りで結構です。在阪の会友を誘って是非参加ください。お待ちしています。

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東山会平成11年度庶務報告


(1)平成11年6月11日
第2回東山へ帰る日(名古屋大学工学部新1号館、ユニバーサルクラブ、卒業生27名、学外理事3名、教官13名、合計43名)

(2)平成11年7月9日
第1回理事会(名古屋大学内グリーンサロン東山、21名)

(3)平成11年10月1日
第2回理事会(名古屋大学内グリーンサロン東山、20名)

(4)平成11年10月20日
東山会会報発行

(5)平成11年11月6日
東山会関西支部総会総会・懇親会(中央電気倶楽部、35名)

(6)平成12年1月4日
平成11年度東山会総会(名鉄ニューグランドホテル、203名)

(7)平成12年1月4日
平成12年度東山会新年同窓会(名鉄ニューグランドホテル、203名)

(8)平成12年2月l0日
第3回理事会(名古屋大学内グリーンサロン東山、19名)

(9)平成12年3月27日
東山賞授与(3名)
東山会新入会員歓迎会(名古屋大学内グリーンヒルクラフ、約100名)

(10)その他
・学内理事会
 第1回平成11年6月3日
 第2回平成11年9月24日
 第3回平成11年12月27日

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