会長挨拶
“東山会について思う” 会長 先ごろ母校電気学科教授の鳥田俊夫さんが心臓移植手術をうけるために渡米されました。移植医学が進歩しているなかで、日本で、これが受けられないない現状は残念なことです。多くの要移植患者は海外に渡って移植を受けているようです。 この場合、大変なお金がかかり、島田さんの場合も約8千万円必要ということでした。 電気学科関係者は直ちに積極的な募金活動をされました。そして、東山会にも協力の呼ぴかけがあり、ネットによる緊急の理事会に諮った上、ただちに皆さんにご協力をお願いしました。 結果、東山会々員約450名の方々から尊い寄金をお寄せいただきました。 直接的にはつながりのない電気学科の方に対してもこうした志を持っていただけたことを大変うれしく思っています。 この会報において、理事会としてのお礼の記事を載せていると思いますが、私のこの稿でも、改めて厚くお礼申し上げます。 島田さんは会報記事にあるように、その後、手術を終えられ、目下療養中とのことです。1日も早い全快をお祈りします。 同窓会としての東山会は日ごろその存在感が希薄で、なかには存在に疑問を寄せられる方もあると聞いています。確かに、会員には東山会以外にも帰属する社会がいくつかあり、東山会はその一つに過ぎないかもしれません。しかし、お互いに助けを必要とするときには頼りになる社会の一つだということが、今回の活動で分かりました。 今後、類似の事態が、会員または会員の周辺に生じた時に、皆さんに呼ぴかけたら、応えていただける組織の一つだと思いました。 東山会の存在意義の一つはこうしたところにあるということを発見した次第です。そして、電気学科会員の絆の強さと、素早い行動に敬意を表したいと思います。 |
特別寄稿
“製造業の変革期” 東海ゴム(株)取締役会長 1957年、大学を卒業して以来製造業に身をおいた私達は、総じて我が国の高度成長の直中で仕事を続けてきた。いや、むしろ、高度成長を牽引してきたと云ってよいと思います。仕事、仕事で脇目も振らず頑張ってきた世代です。 その結果、国中が想像もできなかった程豊かになり、バブル経済が崩壊して不況感の強い10年が経ったにもかかわらず、今でも有史以来、最高の生活をし(衣・食・住・娯楽)、最長の寿命をエンジョイしている姿ではないでしょうか。 東洋の片隅の小国が斯かる繁栄をひとり占めできる害はなく、1970年代から、我が国の製造業の海外生産が始まり、低コストを求め、或いは、消費地に近い所での物作りと、非常な勢いで加速してきました。一方、海外からも多くの製造業が形を変えて日本に拠点をおくようになり、文字通り経済活動に国境のない状態になっています。 特に強調したいのは、東南アジア近隣諸国での製造業の発展には、目を見張らせるのもがあります。低コストに加え、彼等の限は輝いており、世界のトップ技術を貧欲に吸収し実力をつけています。これは、これ等の国を訪問する都度実感することであり、半世紀前の我が国の状況を思い起こさせます。こう云ったことを見聞すると、我が国の経済の柱である製造業の将来に危機感を覚えるのは私だけではないと思います。我が国の製造業に何を残すことができるか、喫緊の課題であります。産・官・学で総力をあげて日本の特長を生かしたモノ、日本でないとできない仕事を創り出していかねぱと思います。高コスト体質を是正しながら、研究開発に、生産技術の革新に全力をあげねばなりません。 企業は当然、生き残りをかけて変革します。大きく変ろうとして諸施策を実行に移しておられる大学と一体となって、大きな成果に結ぴつけたいものであります。製造業の中核をなしている中部地方で、東山会が活動の中心になれることを期待します。 |
第3回「東山へ帰る日」実施の報告
事業理事 年々発展しつつある母校の姿と最新の研究教育の環境を見ていただき、またむかしの東山キャンパスを偲ぶとともに、ともに机を並べて学んだ同僚や現職の教職員との懇親を深めていただくことを目的として「東山へ帰る日」の第3回催しが、第9回(昭和25年)、10回(昭和26年)の卒業生をお迎えして、名大祭開催期間中の平成13年6月8日(金)におこなわれました。 電子機械の安田教授による特別講演”振動の世界への招待”では、振動工学の発展、現在の工業技術への応用など昔の大学の講義を思い出すような解りやすい講義形式のお話をしていただき、そのあとで3つの班に別れて研究室の見学をしました。新1号館8階からのキャンパス周辺及び名古屋市市街の展望は大きく変貌しつつある大学や名古屋市の様子が一瞥でき、また足下の縮小された鏡が池にもl日き思いを呼ぴ起されたと思います。 午後5時からの懇親会では現職教官も交えて鈴木会長、山下主任の挨拶のあとで楽しいひとときを過ごされました。今回ご出席の中にはかって私がいろいろ教わった山田、寺田、葛原の先生方もお見えになり、皆様のお元気なお姿を拝見でき嬉しく思いました。 最後に第3回「東山へ帰る日」に参加の皆様の今後のご健勝をお祈りすると共に、この会の今後の発展をお祈り申しあげるとともに、今回の開催に当たり多大のご尽力をいただいた関係各位に御礼申し上げます。 |
平成14年東山会新年同窓会
平成14年東山会新年同窓会を、下記の要領で開催します。平成3年に現在の形の東山会新年同窓会第1回を開惟してから、今回で第7回となります。毎回、多数の会員の方の参加をいただき、大学の現状報告、機械教室変遷の紹介のような企画と合わせて、名誉教授、機械系学科の現教官とあるいは会員どうしのご懇談をお楽しみいただいています。今回も楽しい同窓会となるよう、東山会理事一同、鋭意準備を進めております。お誘い合わせの上、多数の方のご参加をいただきたく、ご案内申し上げます。 なお、新年同窓会に先立ち、最初の15分問を東山会総会にあて、東山会の活動状況を簡単に報告させ 記 2.会場:名鉄ニューグランドホテル 3.会貫:8,000円 |
会員からのたより
50年をふりかえって 石田啓介(第10回、昭和26年卒) 6月には東山へ帰る日(卒業50周年行事)を企画して戴き感謝しております。私共は高蔵の仮校舎で講義をうけ、3年目にやっと東山に校舎が出来ました。先日、東山のキャンパスの説明といくつかの研究室の案内を受けて私共の時代とくらべてその立派さに感心もし今の学生をうらやましく思った次第です。 私は29年間国鉄に、12年間川崎重工に、8年間ユタカ製作所に勤めました。 まず国鉄ですが入社時は50万人の大所帯で戦後復興の眞最中でした。S30年から動力の近代化が進められ、私はELの設計部門に席を与えられ楽しく仕事をやらせてもらいました。今でも自分が設計したELが活躍しております。S45年頃までに電化、ディーゼル化が終り、S39年には新幹線が開業しました。在来線(1067ミリゲージ)では最高速度120km/h、新幹線(標準軌)は210km/hからスタートし、現在は300km/hに向上しております。日本の新幹線が高速化の先鞭をつけヨーロッパの鉄道が速度向上に続いたこと、在来線の交流電化の実績が新幹線電車の開発の基礎になったことを知らない人が多いようです。 S55年に川重に入社し車両事業本部で新幹線電車を始め国内の大部分の電車の製作に関係し多種の輸出車両も手がけました。ニューョークの地下鉄電車は大半が川重製か川重設計のもので、当局の努力もあってあの落書電車が一新されています。 H4年には車両部品を製作している中小企業に席を移し工場設備の改善と品質管理に力を注ぎました。年々工場の中が明るくなってゆき充実した技術屋時代をすごしました。 49年間の鉄道車両関係の仕事からはなれ、現在は年1回の海外旅行、月2回のゴルフ、週4回の囲碁を楽しんでおります。 最後に東山会がますます発展されますよう心よりお祈りいたします。 辿ってきた道筋 朴学技術交流財団 「もしもし鈴木さんですか?」突然藤田先生から電話がかかってきた。「東山会に何か書いてくれませんか?というわけで書きます。 大学を卒業してから既に38年、定年後4年を迎えると過ぎ去った楽しいことが思い出される。修2の夏トヨタ自動車で入社試験を受けた。試験当日の午後「皆さん合格です」。当時の景気がしのばれる。配属部署は大先輩の小室課長(当時)率いる実験課。希望の自動変連機を担当することになった。自動変速機はやっと世の中に出たところであった。初めて車に乗った時に感じた大きくゴツンと来る振動と音。このショックにずっと付き合うことになった顧問の先生の指導を得てショックを理論的に解明できた。乗り心地に少しでも寄与でさたことは幸せである。当時「年寄り、女の乗る車」といわれ中々普及しなかったが、画期的なオーバドライブ付4速自動変速機が出てからはぐんぐんと伸ぴた。現在80%以上の割合に驚くと共に非常に嬉しい気持ちである。現在も多くの方がこのショックの質向上に努力しているのを見ると、当時音楽会に行ってもフッと頭から音が消え、解決の糸口を探し出していたことが懐かしく思い出される。 有職ドクター制度を利用し、55歳にして再入学。3年間金、土と大学に通い、中村先生の指導を受けた。対象はポンドグラフ。会社で始めたこの学問、最初はシミュレーションの手法と思っていたが論文を書き終える頃やっとモデリングの手法と分った。一人静かに考え、行き詰まると構内を散歩。読んでいる内容がスーと頭へ染み込んでいくのを、時には感じた。審査員の先生方めお情けで学位を頂けた。年の功は有り難い。この手法米国、欧州で普及し、2年に一回米国で国際会議が開催される。今年の正月を含め過去2回参加した。しかしなぜか日本では普及していない。いろいろ使ってみると、特に企業では非常に役立つものである。これからも普及に努めたい。 定年後2年目に突然、科学技術交流財団に再就職することになり、半お役人になってしまった。大学の先生が持っておられるシーズを企業化する仲介役である。技術の分野は広く、当初毎日が充実していたが、慣れてくると責任の重さを感じる。少しでも地域の産業活性化に役立てばと思い、今日も大学、企業、講演会に出歩いている。 私の心地よい時間、迷門会 日産自動車(株) 機械科をとにかく卒業して早30年。過日、それを記念して名古屋で同級会が開催された。関東地区にて管闘中の仲間も多く参加したが、これには「迷門会」の存在が貢献していると白負している。 迷門会の名称は想像に難くないでしょうが、思い起こすこと10年前に、関東地区在住の同級生(昭和46年卒業生、およぴ卒業年度は達っても同じ時期に学んだもの)10余名でスタートした。転勤などでメンバーに出入りはあるものの、コンスタントに年数回、土曜日の午後に六本木にあるステラハウスという、学生時代に通った喫茶店風の店を半日借り切って集っている。 話題は夫々の家族、会社の業績、友人の消息などの近混が一通り済むと、必ず30年前の同じ話題に行き着く。その頃通った店の子の話、合コンで知り合い結局振られた女の子の話、そして低空飛行にも拘わらず無事卒業した秘策、等々。まるで20歳代に戻ったかのような気持ちになって楽しい会話を交わせることがストレス解消にもなり、会は何時も大いに盛り上がる。我々中高年に厳しい現実を突きつけられることが多い昨今、会社生活とは別世界の仲間と話すことの素晴らしさを毎回味わっている。 会を重ねる毎に料理や酒の消費量が減ってきているし、宴たけなわの最中にソファーで居眠りを決め込むものが出たりして齢を感じざるを得ないが、そこはお互いざま。笑い飛ばし合い、励まし合いながら、再会を約して散会している。 今年はモーターショーの年にあたるので、また皆で各社の展示を冷やかしつつ怪気炎を吹き上げながら楽しい一時を過ごせると思うだけでも楽しい。 ところで、我々の仲間にも出向、転籍する者、あるいは新たな挑戦を求めて帰郷する者の例が増え始めた。やがて会社生活から離れ、悠々自適は無理としても自分のために人生をフルに使えるようになったその時に、心に豊かさ与え、有意義な時間を過ごす糧を与えてくれるのがやはり同じ学舎で学んだ(?)仲間ではなかろうか。この先どんな試練が待ち受けているかは分からないが、迷門会の友情が変わることなく続くよう切に願っている。 末筆ながら、関東在住の同級生でまだ迷門会をご存知無い方は、是非ご一報をお寄せ下さい、大歓迎します。 『本当の工ンジニア?』 (株)荏原製作所高圧ポンプ部 大学を卒業して20年、と言うことは、大学には4年しかいないのに、会社でポンプの設計をやって早20年経ってしまったことになる。 では、エンジニアになって何年経ったのであろうか? 子供のころから機械いじりが好きで、漠然とエンジニアになりたいと思っていた。しかし、大学時代はサークルに熱中し毎日学校へは行っていたものの、授業の出席率は大リーグで活躍中のイチローの打率に遠く及ばないものであった。 しかし、そんな私が昨年一年間「技術士」の国家資格取得に向け、会社の仕事の傍ら真剣に勉強した。そして合格。 早速、予てから憧れていた「技術士(機械部門)」の肩書きを名刺に刷り込んだりしたが、その前後で本人の技術力にそれ程大きな違いがある筈もない。 「技術士=本当のエンジニア」であろうか? 技術士には公益確保の責務があり、公共の安全、環境の保全その他の公益を害することのないように努めなければならない。また近年、人命に関わる事故の影響もあり、技術者倫理について考えさせられる機会も多い。 しかし、現実のビジネスの世界では公益の確保だけを考えているわけにはいかない。製品には必要最小限の性能と最大限のコストダウン、そして再短納期が求められる。その結果、設計管理職としては「コストと安全性の妥協を図る」類の仕事に追われることになる。 このような思案をしていると、本当のエンジニアになるにはまだまだ時間がかかりそうな気がする。 新進気鋭の地、浜松にて 静岡大学工学部機械工学科 早いもので学部卒業から10年以上が経過しました。現在は浜松市にある静岡大学工学部機械工学科生産プロセス講座に所属しております。当講座は、現豊田工業大学の近藤一義教授が名古屋大学への赴任以前に所属されていた請座で、名古屋大学の先輩でもある中村保教授、田中繁一助教授のご指導のもと、研究と教育に微力ながら勤しんでおります。 浜松を中心とする遠州地方は、古くは徳川家康から本田宗一郎、豊田佐吉、高柳健次郎各氏といった新進気鋭の気概に満ちた人物を排出する土地柄です。今でもグローバルに活躍する企業が多く、不況にめげずがんばっています。 その浜松市は今年で市制90周年を迎えましたが、そのイベントの一つとして「浜松こども未来博」という名の博覧会が8月前半に行われました。こどもたちに浜松出身の偉人たちの功績や現在の科学技術に直に触れてもらうというイベントで、当学部の客研究室の研究の一端を体験できるブースの出展という形で参加しました。 当講座も出展し、研究とは直接関係ありませんが直線記憶させた形状記憶合金を実際に曲げて、お湯につけることでまた直線に戻るところを体験してもらいました。こどもたちは、自分で曲げた合金が、お湯の中で瞬く間に直線に戻るところを目の当たりにして、ぴっくりしたり、考え込んだり、次にはさらに大きく曲げてみたりと十分楽しんでいたようでした。 実は、これは我々の学生実験のひとつにあったもので、そこからヒントを得たものです。その頃すでに20歳を過ぎていた我々も形状記憶合金がお湯の中で戻って喜んだり、焼入がうまくいかずにうまく戻らないのを残念がったりして楽しんで実験をしていたことが懐かしく思い出されました。 この博覧会で、こどもたちに多少なりとも科学的好奇心を呼ぴ起こすことができ、また理科離れが叫ばれている現在の教育問題で一助となり得たかと、密かに自負しているところです。 この経験を生かしより一層研鑽を積む所存ですので、皆様からの温かいご指導・ご鞭燵を賜れば幸いです。 社会人になって思うこと (株)荏原フィールドテック 私はこの4月から、住み慣れた名古屋を離れ、神奈川県藤沢市で社会人をスタートさせました。新天地の住み心地は良好で、寮の屋上に行って南を向けば江ノ島海岸を、さらに東を向けば富士山を眺めることができます。 さて仕事の方ですが、私はCMP装置(ウェハ平坦化装置)のカスタマーサポートエンジニアとして採用され、4月から7月までが研修期間ということになっていました。最初の1ケ月でビジネスマナー、電話対応、仕事の進め方などを教えていただきました。この研修はグループ企業との合同研修だったため、大勢の前で自己アピールをしたり、グループ毎に分かれて、会社運営シミュレーションを行なったりと盛りだくさんの内容でした。5月に入ると、まず、CMP装置に関わる電気と機械の知識を叩き込まれ、それからCMP装置の立ち上げ実習に入りました。立ち上げというのは簡単に言うと、装置がきちんと動くようにセッティングするということです。調整しなければならない場所は山ほどありますが、先輩方はそれらを当たり前のようにスピーディーにこなしていました。私は初めのうちはただ見ているだけで何をしたらいいかわかりませんでしたが、時間が経つにつれて先輩たちとの呼吸が合っていくのがわかりました。 こうして4ケ月の研修期間はあっという間に終わり、つい先日配属先が言い渡されました。配属先は品質保証部という予想外の部署でした。いわゆるクレーム対応を行なう部署です。初めのうちは「何で自分が?」という気持ちでしたが、先輩、上司からの話などを聞いているとなかなかやりがいのある部署だということがわかってきました。現場とお客様の間に入り、適切な対応をしていくという難しい仕事ですが、学生時代に培ってきた自分の能力を生かしつつ、できるだけ早く一人前になりたいと思っています。 最後に、この5ケ月間で感じたことで、後輩たちに言っておきたい事がひとつだけあります。それは研修中に会社の人人間に顔を売っておけということです。自分が配属されるかどうかに関係なく、できるだけ多くの部署の人間に顔を覚えてもらうことが大切です。実際に仕事をするようになると、様々な部署と関わるようになります。そのときに顔を覚えられていると仕事がスムースに進んだりするのです。なかなか顔を覚えてもらうのは難しいのですが、手っ取り早い方法があります。それは毎日できるだけ多くの人に挨拶することです。これは私も実践しているのですが、結構効果的です。毎日続けていれば、意外な人(しかもすごい上司)が「どうだ、仕事には慣れたか?」と声をかけてくれたりもします。挨拶は基本だとよく言われますが、挨拶から生まれるものは計り知れません。ですから、ぜひ現在学生の皆さんにも今からこの挨拶を実践していってもらいたいものです。 |
関西支部便り
関西支部支部長 第38回支部総会は、平成12年11月18日、大阪中央電気倶楽部で、本部より鈴木隆充会長の来阪を頂き、28名が集い盛大に行われました。招待講演は、早川義一氏(大学院教授・電子機械工学専攻、昭和49年卒)で、最近の名古屋大学東山キャンパスの現況と、教育研究の現状、平成11年度の卒業生は830名、既に26,600名の卒業生を有し、大学院進学率は77%の規模である事など。また独立法人化の動きと、環境と、生命科学に対応した新研究組織にも触れて頂く。特別講演は兼松昭氏(元東レエンジニヤリング常務、昭和39年卒)で、「新ミレニアムを迎えて」と題し、地球、人類、エネルギーの過去、現在、未来の知見を体系的に話された。同氏は繊維機械プラントの貿易を通じ北欧、ドイツ、ベトナム、中国、アメリカでの交流と体験を通じ、豊富な話題を提供され、地球の自転は43億年後に停止、400万年前にアフリカで発生した人類も、後数百年で滅亡するとの話しはショッキングな事であったが妙に納得。 総会報告では、支部長挨拶に続き、東山会を代表して、鈴木本部会長からご挨拶を頂く。平成12年度の名古屋市での新年総会、平成13年6月の「東山へ帰る日」の話とともに本部財政の問題点も訴えられた。関西支部の活動に高い評価を頂き、ご支援に謝意を表したい。支部の会務報告に続き会計、会計監査、庶務、ゴルフ、囲碁の各幹事より報告があり、可決承認された。支部長会員訪問は原子力発電の権威、岩田恒雄氏(関電化工(株)社長、昭和30年卒)をお訪ねした。同氏に深く敬意を表します。 懇親会は後の2時間たっぷり。乾杯はいつも若手NO.1。世話役にはもっとも若いのもいるが今年は何と白井良明氏(大阪大学大学院教授、昭和39年卒)が当たった。乾杯の音頭と挨拶をいただき、大いに盛り上がる。先程の兼松氏大宇宙の話やら丁度、白川先生のノーベル賞の事もあり、そろそろ名古屋大学だと、ひとしきり外野の話が弾む。皆この話に詳しいのに驚く。名古屋大学は発祥の時から候補者がいることを皆信じている。全員、何かしやべった。仕事の話、人生観、人に教えておきたい話、人に聞けない話などなど。 アルコールと共に名大学生歌「若き我ら」の合唱となる。我々の頃は大学学歌と称すべきものは無かった。次に八高寮歌「伊吹おろし」。こうなるともう遠慮できない。小生も工藤廣氏(前々支部長第1回、昭和17年9月卒)とともに先日100年祭を迎えた六高の法被を着て、全員に歌詞を配り「北進歌」を歌う。寮歌祭スタイルである。残念ながら唱和が少ない。歌詞と共に自分の歴史、共有した歴史を歌っているのである。いずれ全員が「若き我ら」歌う時代がくる。それで好いのだ。二人の副支部長が巧く締め括ってくれた。 本年の支部総会は平成13年11月10日(土)16:00より大阪中央電気倶楽部で行います。本部より鈴木隆充東山会会長が再度来阪され、田中英一大学院教授(機械情報システム工学専攻第31回、昭和47年卒)に大学の近況を講演して頂きます。特別講演は趣向を変え新田恒治氏(元松下電器産業取締役研究開発本部長、昭和35年名大理学部卒)に“21世紀の科学技術”を語って頂きます。飛ぴ入りで結構です。在阪の友を誘いぜひ参加ください。お待ちしています。 |
新任・着任のご挨拶
本年度は、機械工学教室に大日方五郎教授(機械運動学講座)、水野幸治助教授(機械情報処理講座)、中山敦助手(機械運動学講座)、電子機械工学教室には、井上剛史講師(知能生産工学講座)、機械工学教室と関連の深いマイクロシステム工学教室に式田光宏講師(徴細加工システム講座)、大島康司講師(マイクロ計測工学講座)、安藤妙子助手(徴細加工システム講座)、野方誠助手(生体医療マイクロ工学講座)が新しく着任ざれました。大日方教授、水野助教授、井上講師、大島講師、式田講師から東山会会員の皆様にご挨拶を賜りましたので、ご扱露させていただきます。 なお、機械情報システム工学専攻の酒井康彦助教授(統計シミュレーション工学講座)は同講座の教授に昇任され、中西淳助手(マイクロ制御工学講座)は University of Southern California にご栄転されました。 名古屋大学に着任して 機械工学専攻 平成13年3月付けで機械運動学講座の教授に着任しました。秋田大学工学資源学部で20年ほど機械制御工学に関する教育,研究に携わり、このたび名古屋大学に異動となりました。 秋田は美人と美酒と美米の国ですが、県全体の人口が120万人程という過疎地域です。過去に木材、石油、鉱山に関する産業で繁栄した歴史があるので、ますます淋しさを感じる最近です。くわえて、昔からの米どころであり、豊かな自然環境に対応した農業地域でもあります。近年の過疎化の傾向は、高齢化に拍車をかけることになり、2008年には全国一の高齢者県になることが予想されています。一方で、名古屋は我が国の製造業のメッカであり、地理的にも中心に位置し発展を続けています。同じ国内といえども、多くの面で差の大きな両地域間を移動したことは、私の生活や仕事において大きな変化を意味しています。 科学技術をベースとする現在の製造業は、自然環境との調和という大きな課題を抱えています。私の専門である機械工学の分野でも、自然環境やその一部である我々人間を中心に据えた見方が要求されています。秋田において、農業や生活における近年の変化を見ることができたことは、私の研究や教育における見方にある視点を与えてくれたものと考えています。言い換えれば、秋田はゼロ成長に近い持続的発展の軌道にのらなければならない我が国の近未来に関し多くのヒントを与えてくれています。 私は東北大学、秋田大学では制御理論を中心に研究を進めてきましたが、秋田の地域社会の要請もあり、15年程前から、高齢者・障害者の運動機能を支援する機器の設計開発に携わるようになりました。これはロポット技術の生活支援への応用というふうにとらえることもできます。名古屋大学での残りの研究生活を家庭内で生活支援するロポットの研究開発に向けていきたいと考えております。これには、製造業のメッカである名古屋のよさを大いに活用できるでしょう。 東山会の皆様には、本紙上からご挨拶させていただきますが、様々な機会に直接お話できますことを楽しみにいたしております。これからよろしくお願い申し上げます。 新任挨拶 機械情報システムエ学専攻 平成13年4月より国土交通省の交通安全公害研究所から機械情報システム工学専攻機械情報処理講座に異動いたしました。昭和62年に東京大学工学系研究科精密機械工学専攻修士課程を修了しました。その後、交通安全公害研究所では自動車の衝突安全を中心に研究をしておりました。平成9年に名古屋大学工学研究朴機械工学専攻ヒューマンライフ支援バイオメカニクス(トヨタ)寄附講座に博士課程(在職)として入学し、Kajzef元教授、村上澄男元教授、田中英一教授に御指導していただき、平成11年に学位を得ました。特に平成9年には名古屋大学に1年間滞在させていただき、Kajzef元教授からはインパクトバイオメカニクスの基礎をはじめとして、研究への取り組み方などさまざまなことを教えていただきました。今も研究でご指導していただいております。 インパクトバイオメカニクスは主として自動車の衝突時の乗員の安全、事故時の歩行者保護など衝撃時の人体の力学を扱うものですが、設備と実験に多大な費用がかかること、法規など政策的な側面も大きいため、国や自動車メーカーが研究の中心となってきました。そのため、外に出る情報も限られており、最新の情報も学会の場ではなく、国や業界内の会議、打合せの場から得ることが多いという特殊な状況になっています。この分野を大学という立場を生かして、基礎研究、医学との連携という面から研究を進めていきたいと思っております。 大学を卒業して長いので学生との付き合いがあまりなく、これまで学生といえども20歳を過ぎているので、相応の義務と責任があると思っていました。最近、これは勘違いしていたかもしれないと感じはじめています。しかし、学生は興味さえいだいてくれれば、驚くほど集中力を発揮するということもわかっできました。いかに学生に研究の方向付けをしていくか、また、責任を持って取り組むことの必要性を認識してもらうかが重要だと思っています。そのためにもまず自分が努力していかなければならないと思います。 新任挨拶 電子機械工学専攻 平成13年4月1日付けで電子機械工学専攻知能生産工学講座(石田幸男教授)の講師に就任いたしました。平成5年3月に安田仁彦教授ご指導のもと本学電子機械工学専攻の修十課程を修了後、オークマ株式会社に入社し、2年間従事した後、平成7年4月より本学電子機械工学専攻の助手を務め、今日に至っております。 これまでは、学生時から指導教官であった石田教授のもとで、回転機械の振動解析、とくに非線形性に起因して発生する各種振動現象の解析に取り組んで参りました。企業から大学に移ってのこれまでの6年間は、助手としての事務的業務以外の時間をじっくりと研究に費やさせていただいたことは本当に幸せであったと思っております。昨年8月にそれらの成果をまとめ、学位を取得いたしました。最近では並行して、磁気浮上搬送系や磁気軸受・ロータ系などの振動と制御の研究に着手しております。 この4月から、これまでの研究室における研究指導に加え、学部や大学院の講義を持ち、また、教室会議や工学部の教官会などの様々な働きに加わることになりました。私が学生であった約10年前と比べると、最近の大学を取り巻く環境は大きくしかも急速に変化しております。このような変革の時期において、甚だ徴力ではございますが、教育と研究に携わるものとして努力して参りたいと思っております。 最後になりましたが、本学機械工学教室の先生方、東山会の皆様方にはこれからもいろいろお世話になることと思います。今後ともご指導ご鞭捷のほどよろしくお願いいたします。 新任挨拶 マイクロシステムエ学専攻 平成13年4月1日付で工学研究科留学生専門教育教官講師に着任いたしました。マイクロシステム工学専攻の講師も併任となっており、マイクロ計測工学講座(三矢保永教授)に所属しています。私は、平成6年に電子機械工学科博士課程前期課程を修了後、新設直後のマイクロシステムエ学専攻の後期課程に進学し、平成9年度から電子機械工学専攻、平成10年度からはマイクロシステム工学専攻の助手を勤めてまいりました。 前期過程から一貫して走査型プローブ顕徴鏡の改良・応用に関する研究をしてきましたが、現在は主に、マイクロプローブを使用して、超薄膜を介した固体間の接触力を計測しています。この研究は、小型高密度化等の要求により、現在でも20nm以下の磁気ディスク装置のスライダヘッドと磁気ディスク表面の非常に狭い浮上すきまが、更に狭くなり、スライダとディスクが間欠または常時接触を行う場合の摩擦・凝着等の現象の解明を目指しています。磁気ディスク装置は、コンピュータの補助記憶装置として、またビデオテープやカセットテープ、ミニディスク等に代わる記録媒体として、現在の社会において非常に童要な役割を担っており、私もこの分野で何らかの貢献ができればと考えています。 留学生担当の仕事として、受入留学生の生活・学習活動全般に対する週1回の相談業務、受入や派遣希望者に対する不定期の相談業務、工学概論第3の担当、工学研究科の国際交流委員会ならびに国際交流室の運営、年報等の発行等に携わっています。着任以来の刺激的かつ貴童な経験から、国際交流の重要性をこれまで以上に痛感し、工学研究科の国際交流の登展に寄与できればと現在努力中です。 最後になりましたが、関係教室の先生方をはじめとしまして、東山会の皆様方には、これまで以上に様々な場面でお世話になることと思います。いっそうのご指導、ご鞭捷のほどよろしくお願い申し上げます。 新任挨拶 難処理人工物研究センター 平成13年4月1日付けで本学の難処理人工物研究センターの講師に着任するとともに、マイクロシステム工学専攻の兼担として教室関係の仕事の手伝いをさせて頂くことになりました。鷲津先生(現京大教授)指導のもと平成2年3月に成蹊大学大学院修士課程を修了し、同年4月に(株)日立製作所中央研究所に入所しました。入社当時の上司が現佐藤教授(微細加工システム講座)で、これ以後、現在に至るまで公私にわたり何かとお世話になっている次第です。同社に5年間勤務した後、平成7年2月に退職し、その後本学マイクロシステム工学専攻の助手として務めてまいりました。 名古屋の地に来て6年が経過しあらためて月日の流れの速さに驚かされると同時に、この間に実に多くの方々と出会えたことを幸せに思っております。私にとって、分野を問わず色々な方々が本講座を尋ねて来て下さるということは非常に楽しいことで、来客がきては記念写真をとりそれを研究室内のパネルに貼り続けてきました。今後も多くの方々が気軽に訪問できるような研究室でありたいと思っております。 研究面では電子回路基板上に微小な機械素子を集積化し、これにより知的でマイクロな機械システムを構築するマイクロマシンの研究に携わってきました。現在所属している難処理入工物研究センターは人工的な廃棄物に対する処理方法の確立を目指している研究機関であります。本センターでは横断的な組織体制を取っており、ここに所属する先生方の専門分野は実に多岐に渡っております。今後はこれまで手掛けてきたマイクロマシン製造の知識を活かしつつ、また自分とは異なった分野の諸先生方との交流を通して難処理人王物に関する新規な研究テーマを開拓していきたいと考えております。 最後になりましたが、本学関係教室の先生方をはじめとして、東山会の皆様方には色々とお世話になるとことが多いと存じますが、今後もご指導、ご鞭燵のほど宜しくお願い申し上げます。 |
定年退官の先生のお言葉
長い間、名古屋大学工学部機械工学教室において研究と教育にご尽力されました竹野思夫先生(環境情報システム講座)が、今年3月名古屋大学を定年退官されました。先生方から東山会会員へご挨拶を賜りましたのでご披露させていただきます。また、山下博史先生からは、竹野先生の思い出などを語っていただきました。 「退官にあたって」 竹野忠夫 私は昭和63年4月に東京大学工学部境界領域研究施設から工学部機械工学教室に赴任してまいりました。その前年の秋のことだった思いますが、教室主任の太田博教授と中村育雄教授が、私がいました駒場のキャンパスにおそろいでお見えになりまして、名大機械への移籍のお話を頂きました。 実は当時、63年4月以降の境界研の廃止がほぼ確定して私自身も、自分を含めて研究室職員の身の振り方を考えなければならない時期にありました。すでに幾つかの国立大学からお話を頂いていましたが、なかなか決心がつかずにぎりぎりの最後まで結論を先延ばしにしていました。太田先生、中村先生から大変に良いお話を頂きまして、これが最後のチャンスだと思い、すぐにお受けすることにしました。そして研究室の3名の助手と1名の技官の処遇に一生懸命になりました。共に苦楽を共にして来た人たちと別れることはとても辛いことでしたが、幸いにもまわりの人々のご助力で何とかそれぞれの行く先のメドがつき、ほっとしたことを今でもはっきりと覚えています。 そして改めて自分自身の将来を考えて幾つかの問題に頭を悩ませました。その一つは分野の問題です。当時の私は、学部学生以来ずっと航空学科で過ごして来ていましたので、機械という異なった分野でちゃんとした仕事が出来るだろうかという心配です。またそれまでは宇宙航空研究所でずっと研究中心の仕事をやって来ましたので、教育が中心の学部での仕事がうまく出来るだろうかという心配もありました。研究面でも、研究所の比較的大きな装置を使用して実験中心の仕事をして来ただけに、学部での小規模の装置でどんな研究が出来るだろうかということも心配でした。 さらに名大機械への移籍が正式に決まった後にも、いろんな人から「あそこは卒業生だけで固めて鉄の団結を誇っている所だから、よそから入った人は大変だよ」とか、「しかし難しい先生は殆ど退官したから、今は楽だと思いますよ」といった話しを聞かされて、まさしく敵地に一人で落下傘で降下するような心細い思いでした。幸いにも当時博士課程1年に在学中の西岡牧人君(現、筑渡大学助教捜)が退学して、助手として一緒に来てくれることになり、大変に心強く思いました。 そして昭和63年春に名大に移って来ましたが、予想以上に教室の皆さんに暖かく迎えられ、また境界研での先の見えないうっとうしい議論から解放されて、自由な雰囲気のもとで伸ぴ伸びと思いきり研究に打ち込むことが出来ました。お陰様でそれなりの仕事が出来たものと思います。また、いろんな人との出会いもあり、この13年問をとても楽しく過ごさせて頂きました。諸先輩、同僚を始め、教室や研究室の職員や学生など、皆様に厚く御礼申し上げますとともに、名大機械のさらなる発展を祈念する次第であります。なお、引き続き名城大学において研究・教育に携わりますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。 竹野忠夫先生の思い出 竹野先生は「反応性ガス力学40年」のご研究の最後の13年間を名古屋大学で過ごされました。先生が担当された「内燃性機関及ぴガスタービン講座」には、当時、職員として私の他に、加賀定さん、櫛田玄一郎先生、早川正人さんがおられ、博士後期課程に王焱さんが在籍していました。そこに、新しく西岡牧人さんが加わり、その後、朱学雷さん、中村祐二さん、趙黛青先生が加わりました。また、この間に、講座の名前も移り変わり「環境惰報システム講座」となりました。 13年前に初めてお会いしたとき、先生は平面レーザ誘起蛍光法(PLIF法)による燃焼場の最先端の測定結果をお示しになり、今後の講座の研究方針についてお話をされました。当時、私は学位論文以来、泉亮太郎先生にご指導いただいた熱交換器内の伝熱促進と非定常伝熱機構の解明に関する研究が一段落し、次のターゲットとして、流動層、固気二相流、直接接触凝縮等の混相流伝熱に関する研究と並んで、本研究室におられた山口誉起先生、木下祥次先生およぴ大岩紀生先生によって展開された「対向噴流」に関する乱流伝熱・拡散の直接数値計算およぴレーザによる非定常可視化実験を、王さんの学位論文のテーマとして取り組んでいました。竹野先生からは、この対向噴流の伝熱問題を理論的に燃焼問題に拡張するための混合分率の概念と、単なる可視化実験を定量的な濃度計測に発展させるためのPLIF法をご教示いただき、燃焼研究への足掛りを作ることができました。一方、先生も私の開発した直接数値計算手法にご興味を持たれ、この後は、櫛田先生、中村先生らと一緒に多くの共同研究をさせていたださました。また、先生のおかげで、私は多くの燃焼関係の研究者と接する機会を得ることができ、現在も乱流燃焼や燃焼排出物に関する研究を通じ環境問題に取り組んでいます。 竹野先生は常に現象の本質を真直ぐに追究する姿勢を貫かれ、講座の大学院生には、セミナーや研究報告会を通じて研究の厳しさをお教えいただくとともに、毎年全員が燃焼シンポジウムに参加・発表するという貴重な機会を与えられました。また、いつも広く世界に目を向けられ、講座の教官全員に貴重な海外留学の機会を与えていただきました。今後とも研究室では先生のこの教育・研究方針を引き継いで行くつもりですが、先生には「反応性ガス力学40年]のご研究をさらに長く続けられ、多くの研究者を育てていただきたく存じます。 最後になりましたが、竹野先生の益々ご活躍とご健康を心よりお祈り申し上げます。 |
東山会平成12年度庶務報告
(2)平成12年10月6日 (3)平成12年11月18日 (4)平成12年12月1日 (5)平成12年12月8日 (6)乎成13年1月23日 (7)平成13年3月26日 (8)その他 |